秋田戦争
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秋田戦争(あきたせんそう)は、戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟を離脱して新政府軍に参加した久保田藩(秋田藩)などが、薩摩藩(現在の鹿児島県)・長州藩(現在の山口県)・肥前藩(現在の佐賀県)などと共に、庄内藩・盛岡藩を中心とする列藩同盟軍を相手に繰り広げた一連の戦いの総称である。秋田庄内戊辰戦争ともいう。
- ^ 林正崇「角館城下町の歴史」ISBN 978-4-89544-633-4、無明舎出版、1982年12月、pp.169-170。原出典は「秋田沿革史大成 下」p.225。
- ^ “広報あきた 2018年11月16日号”. 秋田市役所. 2021年6月1日閲覧。
- ^ 当初案では70万両だったが、のちに減額。
- ^ “葉隠武士の本望、秋田で佐賀藩士を慰霊 交流今も続く”. 朝日新聞デジタル. (2020年10月19日)
秋田戦争
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詳細は「秋田戦争」を参照 久保田藩の新政府への接近に気づいた仙台藩は、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし九条総督軟禁時に仙台藩に世良修蔵を殺害されていた大山綱良・桂太郎らの説得もあり、久保田藩の尊皇攘夷派は7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害した。こうして久保田藩は奥羽越列藩同盟を離脱し、東北地方における新政府軍の拠点となった。 久保田藩に続いて新庄藩・本荘藩・亀田藩・矢島藩が新政府軍に恭順した。この状況に対して、南方へ兵を向けようとしていた庄内藩は一部の部隊を北方へ派遣し、7月14日に新庄藩主戸沢氏の居城・新庄城を攻め落とした。さらに、庄内藩・仙台藩の軍勢は連戦連勝に近い状態で、久保田領・矢島領・本荘領を制圧していった。総督府に自領を放棄された亀田藩は、庄内藩と和議を結んで再度列藩同盟軍に参加した。 また、盛岡藩は列藩同盟と新政府側のどちらの陣営に属すかで長く議論が定まらなかったが、家老の楢山佐渡が帰国すると列藩同盟に与することを決定した。8月9日に盛岡藩は久保田藩に攻め込み、大館城を攻略した。 しかし、佐賀藩を中心とする援軍の到着により久保田軍は勢いを盛り返し、9月7日には盛岡軍を藩境まで押し戻した。庄内藩も、9月12日に上山藩が降伏したことで南方の不安が増したため、17日に退却し以後は自領防衛に徹した。9月22日、会津藩が降伏して東北戦争の勝敗がほぼ決すると、同日盛岡藩が降伏した。24日、最後まで領内に新政府軍の侵入を許さなかった庄内藩も、亀田藩とともに降伏した。
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