穀物法をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:25 UTC 版)
「フレデリック・ロビンソン (初代ゴドリッチ子爵)」の記事における「穀物法をめぐって」の解説
ナポレオン戦争初期の1804年、イギリス議会は小麦の価格が63シリング以下の場合、小麦の輸入に対し24シリング3ペンスという当時としては極めて高い関税をかけた。これは小麦の価格を1801年の高値に維持するためとされた。戦争が長引く中、小麦の価格は高騰を続け、1809年から1813年までの価格は86シリング6ペンスから100シリング3ペンスだった。この高い価格は終戦を向かえばすぐに下落すると当時にはすでに予想され、実際に1814年のパリ条約で戦争が一時的に中断すると価格は一転して55シリング8ペンスまで下落した。これに対し議会で討議が重ねられた後、ロビンソンは1815年3月1日に「小麦の価格が80シリングに上昇するまで小麦の輸入を禁じる」とする1815年穀物法案を提出、法案はすぐに可決され3月23日には国王の裁可(英語版)が与えられた。 穀物法案が可決された結果、ロンドンで暴動が勃発。オールド・バーリントン・ストリート(英語版)にあるロビンソンの自宅も攻撃を受けて多くの家具や美術品が打ち壊された。一方、穀物法は以降も改正が重ねられたが、1817年には96シリング11ペンスだった小麦の価格が1835年に39シリング4ペンスまで下落することを食い止めることはできなかった。
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