第三次シュレージエン戦争
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「シュレージエン戦争」の記事における「第三次シュレージエン戦争」の解説
詳細は「第三次シュレージエン戦争」を参照 マリア・テレジアはシュレージエン戦争における2度の敗北にめげず、シュレージエン奪回のために自軍の再建と外国との同盟締結を目指した。これにより、オーストリアはいわゆる外交革命に踏み切り、1756年に英墺同盟を放棄して仏墺同盟(英語版)を締結した。オーストリア、フランス、ロシア帝国が反プロイセン同盟を形成する中、フリードリヒ2世は今度も先制攻撃を仕掛け、1756年8月29日に隣国ザクセンに侵攻する形で第三次シュレージエン戦争を勃発させた。 オーストリアとプロイセン間の戦争にそれぞれの同盟国が続々と参戦したことで、第三次シュレージエン戦争は瞬く間にヨーロッパ全体を巻き込む七年戦争に発展した。プロイセンは1756年末までにザクセンを占領し、1757年初にはボヘミアに進軍し、数度の会戦に勝利しつつプラハに迫った。5月、プロイセン軍はプラハの戦いで多大な損害を出しながらプラハの守備軍を撃破、続いてプラハの包囲に取り掛かった。オーストリア軍は反撃に転じて6月18日のコリンの戦いに勝利し、プロイセン軍をボヘミアから追い出した。一方でロシア軍とスウェーデン軍がそれぞれ東と北から進軍してきたため、プロイセンは軍を割いて対処しなければならなかった。ロシア軍は8月30日に東プロイセンでグロース=イェーゲルスドルフの戦いに勝利したが、兵站問題がついて回ったため進軍が遅れた。 1757年末、オーストリア軍とフランス軍は西から進軍してザクセンを奪回しようとしたが、11月5日のロスバッハの戦いで大敗を喫した。これによりプロイセンが一時的にザクセンを確保した上、フランスがシュレージエン戦争への深入りを回避する一因となった。同時期にはオーストリア軍がシュレージエンを侵攻したが、これも12月5日のロイテンの戦いで大敗して失敗に終わり、さらに追撃を受けてボヘミアまで押し返された。その後の冬季戦役ではプロイセン=ハノーファー連合軍がヴェストファーレン地方で攻勢に出てフランス軍をライン川の向こうに押し返し、以降プロイセンが西から侵攻される脅威はなくなった。 1758年、プロイセンはモラヴィアを侵攻し、5月末にオルミュッツを包囲した。しかしオーストリア軍の守備が強かったため包囲がなかなか終わらず、プロイセン軍の補給は6月末には尽きていた。さらに6月30日のドームシュタットルの戦いでプロイセンの主要補給部隊がオーストリア軍に遮られ撃破されたため、プロイセン軍は包囲を切り上げて上シュレージエンに撤退した。一方のロシア軍は東プロイセン経由でブランデンブルクに向けて進軍、8月25日のツォルンドルフの戦いでプロイセン軍と交戦したが、両軍ともに大きな損失を出す引き分けとなった。オーストリア軍はザクセンに進軍し、10月14日のホッホキルヒの戦いで勝利するものの進軍自体はほとんど進まなかった。 1759年、オーストリア軍とロシア軍は合流してブランデンブルク東部に進軍、8月12日のクネルスドルフの戦いでプロイセン軍に大勝したが、プロイセン軍への追撃も首都ベルリンの占領もしなかった。戦闘直後のフリードリヒ2世は戦争に負けたと確信するほどだったが、同盟側の内部不和や同盟軍将官の優柔不断さにより救われた。フリードリヒ2世は後にこの出来事をブランデンブルクの奇跡と呼んだ。オーストリア軍はその後の数か月間にドレスデンを含むザクセンの大半を奪回、以降年末までザクセンで散発的な小競り合いを戦った。 1760年、オーストリア軍は下シュレージエンに進軍、プロイセン軍とお互いを意識しつつ行軍したのち8月15日にリーグニッツの戦いを戦った。プロイセン軍が戦闘に勝利したため、オーストリア軍の進軍は止まり、下シュレージエンはプロイセン軍の手に戻った。1760年10月にオーストリア軍とロシア軍が短期間ベルリンを占領した後、11月3日にプロイセンとオーストリア本軍がトルガウの戦いを戦い、両軍とも多大な犠牲を出しつつプロイセン軍が辛勝した。そして、1761年になると、プロイセン軍とオーストリア軍は長年の戦争に疲労が溜まり、両軍とも進軍が少なかったが、ポンメルン戦争とブランデンブルク戦線ではロシア軍の攻勢により翌年までには決着する勢いとなった。 しかし、そこで事態が大きく変化した。オーストリアの同盟者であるロシア女帝エリザヴェータが1762年1月に死去し、親プロイセン派のピョートル3世が皇帝に即位したのである。ピョートル3世はロシア軍を即座にベルリンとポンメルンから撤退させ、5月5日のサンクトペテルブルク条約でプロイセンと講和した。ピョートル3世はわずか数か月後に廃位、暗殺されたが、プロイセンが戦況を逆転させるには十分であり、後任のロシア皇帝エカチェリーナ2世は再参戦しなかった。この時点では交戦国がいずれも疲弊しており、1762年末より講和交渉が始まっていた。結局、シュレージエンについては戦争前の原状回復が合意され、1763年2月のフベルトゥスブルク条約でプロイセンによるシュレージエン領有が確定した。また、プロイセンは神聖ローマ皇帝選挙でマリア・テレジアの息子ヨーゼフ大公を支持することを約束した。
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