第三次シュレージエン戦争とは? わかりやすく解説

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第三次シュレージエン戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 23:35 UTC 版)

シュレージエン戦争」の記事における「第三次シュレージエン戦争」の解説

詳細は「第三次シュレージエン戦争」を参照 マリア・テレジアシュレージエン戦争における2度敗北にめげず、シュレージエン奪回のために自軍再建外国との同盟締結目指した。これにより、オーストリアいわゆる外交革命踏み切り1756年英墺同盟放棄して仏墺同盟英語版)を締結したオーストリアフランスロシア帝国が反プロイセン同盟形成する中、フリードリヒ2世今度先制攻撃仕掛け1756年8月29日隣国ザクセン侵攻する形で第三次シュレージエン戦争を勃発させた。 オーストリアとプロイセン間の戦争それぞれの同盟国続々参戦したことで、第三次シュレージエン戦争は瞬く間ヨーロッパ全体巻き込む七年戦争発展したプロイセン1756年末までにザクセン占領し1757年初にボヘミア進軍し数度会戦勝利しつつプラハ迫った5月プロイセン軍プラハの戦い多大な損害出しながらプラハ守備軍を撃破続いてプラハ包囲取り掛かったオーストリア軍反撃転じて6月18日コリンの戦い勝利しプロイセン軍ボヘミアから追い出した一方でロシア軍スウェーデン軍それぞれ東と北から進軍してきたため、プロイセンは軍を割いて対処しなければならなかった。ロシア軍8月30日東プロイセングロース=イェーゲルスドルフの戦い勝利したが、兵站問題がついて回ったため進軍遅れた1757年末、オーストリア軍フランス軍西から進軍しザクセン奪回しようとしたが、11月5日ロスバッハの戦い大敗喫した。これによりプロイセン一時的にザクセン確保した上、フランスシュレージエン戦争への深入り回避する一因となった同時期にオーストリア軍シュレージエン侵攻したが、これも12月5日ロイテンの戦い大敗して失敗終わり、さらに追撃受けてボヘミアまで押し返された。その後冬季戦役ではプロイセンハノーファー連合軍ヴェストファーレン地方攻勢出てフランス軍ライン川向こうに押し返し以降プロイセン西から侵攻される脅威なくなった1758年プロイセンモラヴィア侵攻し5月末にオルミュッツ包囲した。しかしオーストリア軍守備強かったため包囲がなかなか終わらずプロイセン軍補給6月末には尽きていた。さらに6月30日ドームシュタットルの戦いプロイセンの主要補給部隊オーストリア軍遮られ撃破されたため、プロイセン軍包囲切り上げてシュレージエン撤退した一方ロシア軍東プロイセン経由ブランデンブルク向けて進軍8月25日ツォルンドルフの戦いプロイセン軍交戦したが、両軍ともに大きな損失を出す引き分けとなったオーストリア軍ザクセン進軍し10月14日ホッホキルヒの戦い勝利するものの進軍自体はほとんど進まなかった。 1759年オーストリア軍ロシア軍合流してブランデンブルク東部進軍8月12日クネルスドルフの戦いプロイセン軍大勝したが、プロイセン軍へ追撃首都ベルリン占領もしなかった。戦闘直後フリードリヒ2世戦争負けた確信するほどだったが、同盟側の内部不和同盟軍将官優柔不断さにより救われた。フリードリヒ2世は後にこの出来事ブランデンブルクの奇跡呼んだオーストリア軍その後の数か月間にドレスデンを含むザクセン大半奪回以降年末までザクセン散発的な小競り合い戦った1760年オーストリア軍は下シュレージエン進軍プロイセン軍お互い意識しつつ行軍したのち8月15日リーグニッツの戦い戦ったプロイセン軍戦闘勝利したため、オーストリア軍進軍止まり、下シュレージエンプロイセン軍の手戻った1760年10月オーストリア軍ロシア軍短期間ベルリン占領した後、11月3日プロイセンオーストリア本軍トルガウの戦い戦い両軍とも多大な犠牲出しつつプロイセン軍辛勝した。そして、1761年になると、プロイセン軍オーストリア軍長年戦争疲労溜まり両軍とも進軍少なかったが、ポンメルン戦争ブランデンブルク戦線ではロシア軍攻勢により翌年までには決着する勢いとなった。 しかし、そこで事態大きく変化したオーストリア同盟者であるロシア女帝エリザヴェータ1762年1月死去し、親プロイセン派のピョートル3世皇帝即位したのであるピョートル3世ロシア軍即座にベルリンポンメルンから撤退させ、5月5日サンクトペテルブルク条約プロイセン講和した。ピョートル3世はわずか数か月後に廃位暗殺されたが、プロイセン戦況逆転させるには十分であり、後任ロシア皇帝エカチェリーナ2世は再参戦しなかった。この時点では交戦国いずれも疲弊しており、1762年末より講和交渉始まっていた。結局シュレージエンについては戦争前の原状回復合意され1763年2月フベルトゥスブルク条約プロイセンによるシュレージエン領有確定したまた、プロイセン神聖ローマ皇帝選挙マリア・テレジア息子ヨーゼフ大公支持することを約束した

※この「第三次シュレージエン戦争」の解説は、「シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「第三次シュレージエン戦争」を含む「シュレージエン戦争」の記事については、「シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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