第二段作戦
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第二段作戦(だいにだんさくせん)は、大東亜戦争における日本軍の南方作戦(第一段作戦)に続く攻略作戦である。南方作戦で獲得した占領地の防備のために米豪の連絡遮断、早期終戦のためにハワイ占領を目的とした。 ミッドウェー海戦の敗退とガダルカナル島の放棄により計画は中止され、1943年(昭和18年)3月に第三段作戦が発令された。
- ^ 戦史叢書77大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで1頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦40頁
- ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫、1997年11月、21-31頁。ISBN 9784122029934。
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦44頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦45頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦47-48頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦52-53頁
- ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦54頁
- ^ a b c d 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁
- ^ a b 戦史叢書43ミッドウェー海戦89頁
- ^ a b ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上』原書房、2005年2月、50頁。ISBN 9784562038749。
- ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ、1982年2月、411頁。ISBN 9784257170020。
- ^ 秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社、1995年5月、35頁。ISBN 9784875190257。
- 1 第二段作戦とは
- 2 第二段作戦の概要
- 3 脚注
第二段作戦
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マレー作戦、真珠湾攻撃、マレー沖海戦に始まる南方作戦(第一段作戦)で大本営の要望通りの成功を収めると、山本は第二段作戦に取り掛かった。 山本は真珠湾攻撃前に対米最後通告が遅れないように中央に対し確認していたが、駐米大使館の失態により結果的に遅れていた。山本は騙し打ちの声はアメリカの宣伝とはじめ考えていたが、1942年(昭和17年)2、3月ごろから本当に遅れたのではと考え始めていた。このため山本は積極作戦で立ち直りを困難にして早急に敵の戦意喪失が必要と考えた。結果的に真珠湾攻撃が宣戦布告の前に行われ、アメリカ国民が激昂したことに山本は心を痛め「僕が死んだら、陛下と日本国民には、連合艦隊には決して初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えて欲しい」と周囲に語っている。 4月4日の誕生日に、勲一等功二級の勲章が贈られた。山本は「こんなもの貰って良いのかな」「自分はアメリカ軍の砲艦を南京近くで沈めた以外何もしてはおらん。軍令部総長功一級の関係からか」と恥ずかしがっていた。 軍令部は米豪分断作戦を、連合艦隊司令部は当初インド洋作戦を主張し、軍令部に却下されるとハワイ攻略作戦へと重点を移す。連合艦隊司令部は、山本の望むハワイ攻略をにらんだミッドウェー島攻略作戦を独自に作成し、早く認めさせるため大本営の望むFS作戦を組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝の驕りから成功を前提にスケジュールが組まれ、敵勢力を事前に調べることもしなかった。作戦案は4月3日に軍令部に持ち込まれたがFS作戦を進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し連合艦隊参謀・渡辺安次からミッドウェー攻略作戦が認められなければ山本は職を辞すと伝えられた。しかし軍令部作戦課は反対の意思を変えなかった。4月5日、渡辺は軍令部次長・伊藤整一から理解を得て、軍令部総長・永野修身まで伝えられ、第一部長・福留繁が召致され協議の末、FS作戦に修正を加えて連合艦隊案が採決され、第二段作戦の骨子となった。軍令部によれば決め手は「山本が十分な自信があると言うから」であったという。首席参謀・黒島亀人によれば、ミッドウェー作戦における山本の辞職示唆は脅しではなく決意していたという。また、山本の幕僚は一航艦の南雲長官と草鹿参謀長に批判的であり、南雲を第一航空艦隊長官から更迭すべきと要望したが、「それでは南雲が悪者になってしまう」と答えて却下した。 2月22日には日本海軍の潜水艦によりアメリカ本土砲撃に成功したほか、アメリカ西海岸沿岸で大規模な通商破壊戦を行っている。これに対してアメリカ海軍は4月18日にドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功、山本に国民から非難の投書があった。山本は以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたため、一層ミッドウェー攻略作戦の必要を感じた。連合艦隊航空参謀・佐々木彰によれば、山本は日本が空母によるハワイ奇襲を企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対して、アメリカもまた奇襲を企図できると考えていたようであるという。 5月8日、珊瑚海海戦で日本軍は失敗し、ポートモレスビー作戦は延期になり進攻が初めて止められた。連合艦隊司令部では徹底して追撃せず北上退避した第4艦隊司令長官・井上成美を臆病風、攻撃精神の欠如と非難した。山本は「珊瑚海でもはじめは相当苦戦しましたが結局は実力に物を云はせて押切つたわけでした」と知人に語っている。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 ミッドウェー島攻略とアメリカ機動部隊殲滅を目的とするミッドウェー作戦が6月7日決行予定で計画される。4月22日、帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊に知らされると、山口多聞、源田実から戦力を一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早と激しい反対があったが山本ら連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した。第二艦隊司令長官・近藤信竹からも、「ミッドウェー作戦をやめアメリカとオーストラリア遮断に集中すべき」と意見があったが山本は奇襲できれば負けないと答えた。またミッドウェーの保持、補給には考えがなく、参謀長・宇垣纒は保持不可能なら守備隊は施設破壊して撤退すると答えている。山本は戦訓研究会で「長期持久的守勢を取ることは、連合艦隊司令長官としてできぬ。海軍は必ず一方に攻勢をとり、敵に手痛い打撃を与える要あり。敵の軍備力は我の5から10倍なり。これに対し次々に叩いてゆかなければ、いかにして長期戦ができようか。常に敵の手痛いところに向かって、猛烈な攻勢を加えねばならぬ。しからざれば不敗の態勢など保つことはできぬ。これに対してわが海軍軍備は一段の工夫を要す。従来のゆき方とは全然異ならなければならぬ。軍備を重点主義によって整備し、これだけは敗けぬ備えをなす要あり。わが海軍航空威力が敵を圧倒することが絶対必要なり」と発言。5月1日から4日までの図上演習ではミッドウェー攻略中に敵空母部隊出現で日本空母部隊が大被害を受ける結果が出るが、宇垣から「実際の作戦ではこのようなことにならないよう指導する」と判定のやり直し、被害下方修正が行われた。また戦訓研究会、図上演習でも各部隊から延期が求められ、攻略を目的とする空襲と敵機動部隊迎撃のどちらが主目的なのか、山本の乗る「大和」をはじめとする主部隊がなぜ支援の届かないはるか後方からついてくるのかといった疑問も出た。またこの頃、連戦連勝から軍全体として気が緩み機密保持が保たれておらず取り締まるべき連合艦隊司令部も同様であった。作戦準備も遅れ延期の要望が相次ぎ軍令部も2、3週間遅らせることを勧めたが聞かず、5月25日の最後の図上演習では攻略作戦成功後の検討だけであった。最終的に機材が間に合わずミッドウェー作戦は1日遅らせることを認めたが、攻略日の変更はなかった。戦艦群(特に低速の伊勢型戦艦・扶桑型戦艦)が作戦に加わったことについて、山本は事前の作戦会議で「情だよ」と答えている。 ミッドウェー海戦直前の5月14日、山本は眼鏡をかけマスクをして変装すると、呉駅で愛人・河合千代子と落ち合った。山本は病み上がりだった河合を背負って人力車まで運んだ。河合が呉を去る時は、列車の窓越しに強く握り合って別れを惜しんでいる。直後には「私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、国家のため、最後の御奉公に精魂を傾ける。終わったら世の中から逃れて二人きりになりたい。5月29日には私も出撃して三週間洋上に出るが、あまり面白いことはないと思う」という趣旨の手紙を送った。 ミッドウェー作戦前の山本の「大和」航海中における生活は以下のようなものだった。まず午前6時ごろ艦橋に姿を現すと、無言で長官専用椅子に座る。当時の艦長・高柳儀八大佐、参謀長・宇垣纏と言葉をかわすこともなく、広い艦橋は沈黙に包まれたという。朝食後の作戦会議では、幕僚全員が発言するよう促した。朝夕30分の入浴習慣は、平時、戦時、停泊中、航海中とも変わることがなかった。午後8時になると艦橋作戦室で参謀・渡辺安次と将棋に興じ、4時間以上指すこともあった。このため午後8時以降の先任参謀は宇垣や黒島ではなく、渡辺と思われるほどであった。 山本ら連合艦隊はミッドウェー作戦で敵機動部隊を誘い出し撃滅することを主目的として説明したが、軍令部はミッドウェー島攻略支援を主目的として示した。そのため実行部隊に連合艦隊の意図は徹底されなかった。山本ら連合艦隊司令部は第一航空艦隊(南雲艦隊)司令部に対し、命令には書きくわえなかったが、攻撃隊半数を待機させ敵機動部隊による側面からの攻撃に備えるように指導した。しかし連合艦隊司令部も敵機動部隊はハワイにおり、出現はミッドウェー作戦成功後でしか想定せず図上演習もしなかった。白石萬隆によれば、連合艦隊は若干企図が暴露しても敵艦隊を誘いだそうとしている節があったという。真珠湾にいるはずである敵機動部隊の動向の情報を南雲艦隊から機を逸せず知らせてほしいと出撃前に頼まれ、作戦の転換は連合艦隊から知らせることになっていたが、連合艦隊司令部は敵機動部隊が真珠湾を出たらしいことを察知したにもかかわらず南雲艦隊へ伝えることを怠った。連合艦隊司令部は5月中旬より敵通信増加を気に止めなかったが、6月3日までに入手した情報から我が動静偵知し活発に動いている、警戒すべきも好ましいと考えていた。4日ごろには敵機動部隊が存在する兆候をつかみ、幕僚が「南雲艦隊に知らせますか?」と山本に相談したが、山本は「敵に無線を傍受される恐れがあるし、南雲たちも気づいているだろう」と返答し、南雲艦隊へは伝えられなかった。また連合艦隊は全部隊へ東京からの甘い状況判断を流し続けたままであった。そのため南雲艦隊は周囲に敵機動部隊はいないものとして行動しており、攻略のための攻撃が不十分と知ると待機を指示された攻撃隊を使用した。参謀長・草鹿龍之介によれば「山本の望みは 南雲も幕僚もよくわかっており、状況が許す限りそうしたが、ミッドウェー基地から航空攻撃があり、敵空母の発見ない状況で半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官としては耐えられない。後で問題だったとしても当時の状況では南雲の決定は正しかった」という。 6月5日、ミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、南雲艦隊の主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する。山本は完成したばかりの戦艦「大和」に座乗して機動部隊後方を航海し、米軍とは全く交戦しなかった。空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和」作戦室で渡辺安次と将棋を指している時に受け取ったが、「うむ」「ほう、またやられたか」の一言だけをつぶやき、将棋はやめなかった。また、日本の主力空母4隻が撃沈された際には「南雲は帰ってくるだろう」と述べた。翌日昼ミッドウェー島を砲撃する案を渡辺が提案し黒島が同意するが山本はそれを却下した。山本は幕僚に敗因責任は私にある一航艦を責めてはいかんと言い、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介に批判的な黒島に対しても「南雲、草鹿を責めるな」とくぎを刺した。 大敗後、帰還した草鹿龍之介の「責任を取るべきところではあるが雪辱の機会を与えて欲しい」という言葉に、山本は「今回のことで誰か腹を切らねばならぬとしたらそれは私だ」と答え、再編された空母機動部隊(第三艦隊)の指揮を引き続き南雲と草鹿に採らせた。山本は南雲に「今次の戦果に関しては同憂の次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績に比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐の決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激に堪えず、願わくば最善をつくして貴艦隊の再編成を完了し、過去の神技に加ふるに、今次の教訓を加え、一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る」との手紙を送っている。宇垣参謀長によれば、山本の内心は「全責任は自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという。 日本へ帰還後の作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。7月12日、山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣は参加せず)は料亭で宴会を行い、着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。ミッドウェー海戦大敗北後、南雲艦隊の将兵に緘口令がしかれたが、山本は名刺に近況を書き愛人・河合千代子に送っている。海軍兵学校監事長・大西新蔵中将は、1945年(昭和20年)8月15日の玉音放送後、全校生徒を前に「ミッドウェー海戦で負けた時、Y元帥は当然腹を切るべきだった」と断言し、温情主義と情報の隠蔽が敗戦を招いたと指摘した。
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第二段作戦
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詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 6月、ミッドウェー海戦に攻略部隊支援隊として参加。麾下の重巡三隈を失う。重巡「最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動を続けたことが問題とされた。一昼夜無線封止をしたため味方である連合艦隊司令部ですらどこに栗田部隊がいるかわからない状態になった。その後安全圏に退避した後に初めて位置報告をしている。その間に栗田が見捨てた重巡「三隈」は米軍機動部隊の追撃により撃沈され、最上・朝潮・荒潮は辛うじて自力で退避に成功している。 インド洋作戦などで、航空支援がない中小艦船が脆弱であることを日本側の現場指揮官達は良く知っていたが、連合艦隊は機動部隊が壊滅し制空権を失ったのに第七戦隊だけでのミッドウェー砲撃命令をだし、それもミッドウェーから90浬の近距離まで接近した頃に撤退を命令し、撤退に対する支援行動は一切行わなかった。更に第七戦隊3番艦「三隈」と第七戦隊4番艦「最上」」が衝突した(現地時間6月4日2時18分頃)際、栗田は2時30分にはこれを通報しているが、これに対する連合艦隊や上級司令部である第二艦隊からの指示や救援行動は一切なく、最初の指示は4時間も経過した6時25分であった。衝突時点で戦隊はミッドウェーから100浬程の地点におり、既に敵に発見されている状況(衝突したそもそもの原因は航行中に敵潜水艦タンバーを発見して回避行動をとった為)なので、夜明けとともに空襲を受ける可能性が高かった。栗田は損傷の少ない「三隈」と艦首を失った「最上」だけでミッドウェー島から南西のトラック諸島へ避退するよう命じた(のちに6時25分の指示で栗田の指揮下にあった第8駆逐隊の駆逐艦2隻〈荒潮、朝潮〉を護衛に向かわせる事になるが燃料が欠乏しており、重巡から燃料を分けて急行させたため遅れた)。 栗田自身は作戦を継続すべく、無傷の第1小隊(熊野、鈴谷)を率いて連合艦隊主力部隊との合流を急いだ。これは第七戦隊は連合艦隊主隊に合同せよという命令が継続しており、栗田にはそれを行う義務があったからである。連合艦隊参謀長宇垣纏は「戦藻録」に「第7戦隊は全部集結して最上の護衛に当たるこそ望ましき次第」と書いているが、連合艦隊が集結命令を取消して救援を命じ、自身らも応援部隊を出さなかった、指示が遅れた事に関しても一切触れていない。また「三隈」と「最上」が米軍機動部隊に追撃され、「三隈」が撃沈されたのは、レイモンド・スプルーアンス少将が「三隈」を「空母か戦艦と誤認した」ためだった。大破した「三隈」の写真を見たスプルーアンスは「戦艦を爆撃した」とニミッツ提督に報告したことを後悔している。重巡三隈が撃沈された件に関して、ミッドウェー海戦における連合艦隊の責任や事故の直接原因(三隈と最上の信号誤認)を認めつつも、第七戦隊司令官として栗田にも責任があるとする意見もある。熊野艦長・田中菊松大佐は、栗田の戦意のなさに批判的である。 7月、第三戦隊司令官に任官。10月、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦を指揮。ヘンダーソン基地艦砲射撃に栗田は反対の態度を示していた。この判断は当時の海軍軍人の常識(陸上砲台と艦船が砲撃しあうと、船体が揺れ不安定な艦船は不利で安定する陸上砲台が有利)では妥当なものである。実際日露戦争緒戦の連合艦隊と旅順要塞及び艦隊との砲撃戦や第一次世界大戦でのガリポリでの戦いでも戦艦からの砲撃は陸上の敵拠点を無力化できず、目的を達しえなかった。会議の席上でも栗田と同じく戦艦による陸上砲撃に反対を唱える者がほとんどであった。山本長官の「第三戦隊が行かないのであれば、私が大和を率いて突入する」という発言を受けて、栗田は作戦を引き受けるが、引き受けた以上は成功させるべく、全力を注いでおり、打ち合わせで会った奥宮正武(当時は第二航空戦隊参謀)は、初めて会った栗田が首席参謀の有田雄三中佐と共に強い自信を示していたと述べている。この作戦は戦艦を伴った砲撃作戦としては唯一の成功となった。 26日、南太平洋海戦に参加。1943年2月、ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦を支援。 1943年8月、第二艦隊司令長官に親補される。海軍大学校甲種学生を経ずに司令長官に親補された数少ない人物の一人である(栗田の拝命した海大乙種は同期生の約8割が進み、高等数学など主に普通学を学ぶ課程である)。海大甲種を受験しているが、相次ぐ転勤と激務で知られる艦隊勤務のため、勉強の暇がなく、口頭試問で不合格になっており、栗田は「頭が悪かったんだな」と述べている。第二艦隊司令官に親補された時の心境について「じょうだんじゃない。ねえ。こんな野武士を……だめじゃないか。そう思ったね」と戦後述べている(予備役になれると思っていたという)。 11月、ろ号作戦に伴い、ブーゲンビル島逆上陸支援のため、第二艦隊主力を率いてラバウル入泊した際にラバウル空襲に遭遇した。同年勲一等瑞宝章を受章。1944年6月、マリアナ沖海戦に参加。その後、栗田の指揮する第二艦隊は一旦本土に戻ったものの、燃料事情を考慮してスマトラ島のリンガ泊地に移動し、捷号作戦に備えた艦隊訓練に当たった。
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第二段作戦
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1942年(昭和17年)4月10日、艦隊編制改訂で、一航艦の麾下部隊として第十戦隊(軽巡洋艦長良・駆逐艦12隻)が新設され、固有編制の直衛駆逐艦部隊を持つようになった。将来的には大航続力と防空能力を備えた秋月型駆逐艦16隻(駆逐隊4隊)で統一する予定だったが間に合わず(1番艦の秋月は6月11日竣工)、当分は航続距離の長い甲型駆逐艦(陽炎型駆逐艦・夕雲型駆逐艦)で充当することになった。この時点でも、まだ固有編制だけで作戦を行うことができず、引き続き第二艦隊から第三戦隊第2小隊(霧島・榛名)と第八戦隊(利根・筑摩)に護衛されていた。 詳細は「珊瑚海海戦」を参照 この艦隊編制改訂と同時に、連合艦隊は第二段第一期兵力部署を発令した。第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)はポートモレスビー攻略に伴うMO作戦に参加のため、南洋部隊(指揮官:井上成美第四艦隊司令長官)に編入された。当初、派遣される空母は加賀だったが、南洋部隊より空母増勢の要請があり五航戦に変更となった(他に第五戦隊、第7駆逐隊、第27駆逐隊を増援)。5月上旬にポートモレスビー作戦を実施したあと、五航戦は6月のミッドウェー作戦には一航艦に戻って参加する予定だった。5月7日-8日の珊瑚海海戦において、日本側は軽空母祥鳳が沈没、翔鶴が大破、瑞鶴も航空隊の被害甚大で、翔鶴の修理と航空隊の再建には三ヶ月が必要と見込まれた。連合軍側は空母レキシントンが沈没、ヨークタウンが損傷した。機動部隊においては「一航艦の中で一番練度未熟な五航戦が、最精鋭の米空母と互角に戦って勝利を得た。一航戦・二航戦なら鎧袖一触である」という驕りが見られるようになった。 詳細は「MI作戦」を参照 4月下旬、南雲機動部隊はインド洋から内地に帰還した。5月5日、大本営は大海令第18号と大海指第94号により、連合艦隊に対しミッドウェー島およびアリューシャン群島西部要地攻略を命じた。同日、連合艦隊は命令作第12号により、第二段作戦計画を明らかにする。ミッドウェー攻略を終えた後は、10月を目途にハワイ攻略の準備を行う予定であった。5月12日、連合艦隊命令作第14号により、ミッドウェー作戦とアリューシャン作戦の詳細な作戦要領が下令された。機動部隊はミッドウェー島攻略を行う「第一機動部隊」と、アリューシャン方面に向かう「第二機動部隊」に分割された。5月14日、五航戦から珊瑚海海戦の戦死者の報告が送られ、翔鶴と瑞鶴の両艦とも次期作戦に使えないことが判明した。そこで五航戦は第一機動部隊に復帰し、内地での修理・整備・再建を命じられた。第一機動部隊のうち作戦に参加する空母は4隻(一航戦〈赤城・加賀〉、二航戦〈飛龍・蒼龍〉)、第二機動部隊の空母は第四航空戦隊の2隻(龍驤・隼鷹)となった。 大海令第18号から出撃予定日まで一か月もなく、機動部隊は開戦以来五ヵ月におよぶ作戦行動を終えて内地に帰投したばかりで、休養と整備が必要であった。また第一段作戦終了にともなう大規模な人事異動により艦艇・航空隊とも練度が低下し、各部隊・各艦隊から「時期尚早」との反対意見がでた。作戦事前研究会で山口多聞少将(二航戦司令官)と源田実中佐が連合艦隊司令部に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は決定済みとして取り合わなかった。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 5月28日、第一機動部隊は第一航空戦隊(赤城・加賀)・第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)・第三戦隊第2小隊(榛名・霧島)・警戒部隊(軽巡洋艦長良・第4駆逐隊〈嵐・野分・萩風・舞風〉・第10駆逐隊〈秋雲・夕雲・巻雲・風雲〉・第17駆逐隊〈谷風・浦風・浜風・磯風〉)・燃料補給部隊として内海西部を出撃する。6月5日-6日にかけてのミッドウェー海戦で、第一機動部隊は空母4隻(赤城・加賀・飛龍・蒼龍)と母艦搭載全飛行機285を喪失した(搭乗員は8割が生還)。日本海軍が保有する空母は正規空母2隻(翔鶴・瑞鶴)、商船改造大型空母2隻(隼鷹・飛鷹〈7月竣工予定〉)、軽空母3隻(龍驤・瑞鳳・春日丸)に減少し、飛行機搭載数の多い攻撃用空母は4隻(翔鶴・瑞鶴・隼鷹・飛鷹)という状態になった。戦訓から大型空母2(攻撃専念)・小型空母1(警戒)で航空戦隊を編成し、対空母航空決戦に徹すること、機動部隊を建制化して部隊内の思想と訓練の統一を図ることになる。7月14日、連合艦隊の戦時編制改訂にともない第一航空艦隊は廃止され、第三艦隊として再出発した。
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第二段作戦
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1942年(昭和17年)4月28日から1週間かけ、戦艦「大和」で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」が行われた。兵棋図演で宇垣は統監・審判長・青軍長官の一人三役を担うが、日本艦隊が不利な状況にあっても日本艦隊の攻撃結果を大きく、被害を少なく判定した。この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となり、統監部は審判のやり直しを命じ、空母の被害を減らし空母3隻を残し、演習を続行させた。数次の攻撃で空母「加賀」が沈没、さらに空母「赤城」に9発命中して沈没する結果が出たが、宇垣は赤城を3発命中の小破に変更した。爆撃、空戦などの審判官が規則に従って判決を下そうとしたとき、宇垣は日米の戦力係数を三対一にするように命じた。その後、攻略には成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は座礁した。宇垣は「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した。その後のニューカレドニア、フィジー攻略における図上演習では、沈没したはずの「加賀」を復活させて進行した。この図上演習で米軍(赤軍)指揮官をつとめた松田千秋は、既に連合艦隊の作戦が決定している以上「加賀」を復活させて図上演習を続けることはやむをえないと述べ、そもそも山本や黒島が決定した作戦そのものに無理があったと述べている。沈没した加賀の参加については、甚大な被害を予想させるような図演の結果が図演参加者の間での自信喪失に繋がることを懸念したための配慮とする意見もあるが、図上演習は作戦計画の実行の可能性を検証し、問題点や改善策を総合的に検討する重要な学習機会でもある。 戦訓分科研究会において、宇垣は第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介に対し「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「斯かる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が草鹿を追及すると、航空参謀の源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以て、之と巡洋艦の零式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊がミッドウェーの攻撃は二段攻撃とし、第二次は敵の海上航空部隊に備える案になり、安堵した。 6月5-6日のミッドウェー海戦では、第一航空艦隊の主力空母が次々に被弾炎上。連合艦隊司令部では黒島亀人ら参謀達がパニックに陥ったが、宇垣は冷静に対応して参加部隊を統率して撤退させた。出撃前、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介は、攻撃日が決まっているので奇襲の機動余地がなく、空母はアンテナ受信能力不足で敵情がわかりにくいので、連合艦隊が敵情を把握して作戦転換を指示することを宇垣に取りつけた。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった。宇垣は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。海戦後、旗艦「大和」から辞去する草鹿らを慰問し慰問品を送るなど激励している。ミッドウェーで山口多聞が戦死したことを宇垣は「余の級友中最も優秀の人傑を失ふものなり」と嘆き、その後もたびたび山口の最期を惜しんでいる。宇垣は敗因を振り返り、「今日の敵は正に飛行機」として高角砲の射程延長やレーダーの活用、対潜水艦装備の拡充が必要と認識した。 8月上旬、米軍のガダルカナル島上陸により戦艦「大和」に乗艦してトラック泊地へ移動、連合艦隊参謀長としてガダルカナル島の戦いが始まる。千早正隆は、ガダルカナル島作戦のころから山本の黒島への信頼が揺らいでおり、次第に宇垣に頼ることが多くなっていたと指摘する。10月1日には山本が宇垣の自室を尋ねて雑談し、宇垣は山本と気兼ねなく話せた事を喜んでいる。宇垣は、その後も南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦、い号作戦などを指導する。11月1日、海軍中将に進級。 1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され、山本搭乗機、宇垣搭乗機ともに撃墜されて山本は戦死、宇垣も負傷した(海軍甲事件)。宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還した。その後、山本の形見として短刀を貰う。陣中録には「かねて山本長官身代わりたらんと覚悟せる身が、長官を失い、かえって生還す」と記してある。宇垣は負傷中も部下を使って口述で戦藻録に記入させた。
※この「第二段作戦」の解説は、「宇垣纏」の解説の一部です。
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第二段作戦
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1942年(昭和17年)6月、MI作戦に参加。第二艦隊を主力とするミッドウェー島攻略部隊を担当した。 戦艦「大和」でのミッドウェー作戦事前図上演習で、近藤は、米空母がほぼ無傷な状態であり、ミッドウェー基地にも敵戦力があるため、MI作戦を中止し、米豪遮断作戦に集中すべきと主張したが、連合艦隊長官・山本は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤はミッドウェー島を占領しても補給が続かないことを指摘したが、連合艦隊参謀長宇垣纏は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答えた。MI作戦はミッドウェー海戦での敗退で中止され、攻略作戦は実施されなかったため、近藤の第二艦隊が米軍と直接交戦することはなかった(近藤の指揮下にあった栗田健男中将の第七戦隊を除く)。 1942年8月、第二次ソロモン海戦に参加。10月、南太平洋海戦に参加。これらソロモン方面の作戦では南雲忠一率いる空母機動部隊(第三艦隊)の前衛として展開した第二艦隊を指揮した。当時近藤は機動部隊指揮官・南雲忠一中将より先任順位が上であったため、主力部隊を率いる南雲とその支援部隊を率いる上級者の近藤との間には複雑なものがあったが、近藤は南雲の行動に一切掣肘を加えることなく、あたかも南雲の指揮下にあるかのように行動しており、戦後、第三艦隊参謀長だった草鹿龍之介は近藤の寛容に感謝の念を表明している。 1942年11月、第三次ソロモン海戦に参加。夜戦で米軍駆逐艦を3隻撃沈、近藤側は戦艦霧島と駆逐艦綾波を喪失した。近藤は自ら第二艦隊旗艦・重巡洋艦「愛宕」に座乗して最前線で指揮を執り、米新型戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)に夜間水雷戦闘を挑んだが酸素魚雷の自爆により決定的戦果をあげる機会を逸した。 1943年(昭和18年)2月上旬、ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)で第二艦隊を率いて米艦隊の牽制任務に従事する。4月18日、山本五十六長官が海軍甲事件で戦死した際には、後任の古賀峯一大将が着任するまで臨時に連合艦隊の指揮をとった。同時期には、第四艦隊司令長官小林仁中将、第六艦隊司令長官小松輝久中将と連名で、内南洋方面(マーシャル諸島等)の防備強化について意見具申している。4月29日附で海軍大将へ進級。
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第二段作戦
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「朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「第二段作戦」の解説
詳細は「第二段作戦」および「ミッドウェー海戦」を参照 南方作戦が一段落すると、馬来部隊に編入されていた各部隊・各艦(第三水雷戦隊を含む)は内地に帰投した。5月下旬より、第三水雷戦隊はミッドウェー作戦に従事した。第20駆逐隊を含め、三水戦は連合艦隊司令長官山本五十六大将(旗艦大和)直率の主力部隊に所属する 5月29日朝、主力部隊は桂島泊地を出撃した。第20駆逐隊は第一艦隊司令長官高須四郎中将指揮下の警戒部隊に区分されており、6月4日0500に山本長官直率の主力部隊主隊と分離した。海戦に敗北したあと内地にもどった三水戦は、6月下旬より奄美大島方面で対潜掃蕩に従事した。 「スタブ作戦」も参照 7月下旬、第三水雷戦隊はインド洋方面通商破壊を主目的とする「B作戦」に従事するため、マレー半島西岸メルギーに進出した。B作戦参加部隊の兵力部署において、第20駆逐隊は三水戦司令官指揮下の機動部隊・北方隊(軽巡〈川内〉、第19駆逐隊〈浦波、敷波、綾波〉、第20駆逐隊〈夕霧、朝霧、天霧、白雲〉)に所属していた。 8月7日、ガダルカナル島攻防戦の開始にともない、B作戦は中止される。B作戦参加部隊は、とりあえず第七戦隊司令官西村祥治少将の指揮下でダバオ回航を命じられた。第20駆逐隊はマカッサルとダバオを経由して、8月23日までにトラック泊地に進出した。
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第二段作戦
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詳細は「珊瑚海海戦」を参照 第二段作戦において、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当した。作戦目標はポートモレスビーの海路からの攻略であった。井上は旗艦鹿島をラバウルに進めて指揮を執った。1942年(昭和17年)5月7日、珊瑚海海戦の第1日に、米機動部隊の攻撃で祥鳳(南洋部隊所属)が沈んだ時の心境を、井上は海戦の後に書いたと推定される手記に「実に無念であった。このような時に、東郷平八郎元帥であればどうなさるだろうかと考えた。心中、『お前は偉そうに4F(第四艦隊)長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ』 と言われているような無念を感じた」という趣旨の記述をしている。井上の下で、第四艦隊航海参謀であった土肥一夫少佐によれば、7月に連合艦隊参謀として連合艦隊司令部に着任した際に、第四艦隊司令部から提出された珊瑚海海戦に関する報告書類、当時の電報綴りに赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多くの罵詈雑言が書き込まれているのを見たという。 海軍省・軍令部や連合艦隊司令部は、第四艦隊司令部の珊瑚海海戦での指揮を批判した。連合艦隊参謀長の宇垣纏は、日誌「戦藻録」の1942年(昭和17年)5月8日の項に『4F(第四艦隊)の作戦指導は全般的に不適切であった。小型空母「祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である』旨を書いている。軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐は、日誌に「4Fの作戦指導は消極的であり、軍令部総長の永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている。 日本軍が南洋群島の東と南に占領地を広げると、第四艦隊の担当戦域となった。ウェーク島、南東方面(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島)など。第十一航空艦隊(11航艦。司令長官は塚原二四三中将)麾下の基地航空隊がマーシャル諸島に展開し、第四艦隊が補給を担当していたものの、手こずっていた。ミッドウェー作戦の前、トラックの第四艦隊司令部に連合艦隊参謀が説明に来て「ミッドウェー占領後の補給は第四艦隊に担当して頂く」と告げた。第四艦隊先任参謀の川井巌大佐が、空母2隻基幹の航空戦隊を附けてくれなければミッドウェーへの補給など出来ない、と反論した所、ミッドウェーへの補給は11航艦が行うことになったという。マーシャル群島に展開し、第四艦隊から細々と補給を受けている11航艦が、さらに2,200キロも先のミッドウェーへの補給を出来る訳がなかった。もともと担当していた南洋諸島全域に加えて、ウェーク島方面、南東方面を第四艦隊が担当するのは無理があった。7月14日に南東方面を担当する第八艦隊が編成され、7月24日にラバウルの陸上に長官の三川軍一中将が将旗を掲げ、統帥を発動した。ここに南洋部隊は内南洋部隊と改称され、それまで南洋部隊指揮下だった第六戦隊(重巡4隻)も外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された。 1942年(昭和17年)7月に、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業した。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に、1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦から間もなく、「トラックには将兵の慰安施設が一軒しかない。士官用の施設として、小松の支店をトラックに出してくれないか」という依頼をしていたためである。その後の戦局の悪化、敗戦でトラック島の「小松」は消滅し、看護婦の仕事を手伝うようになった女子従業員が6人犠牲となった。井上は、終戦直後に「小松」を訪ね、案内された座敷に入らず、敷居の外に座って山本直枝に頭を下げ「申し訳ありません。今度の戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍を代表しておわびいたします」と謝罪した。山本は、井上の潔い謝罪に感銘を受けた。 陸軍参謀辻政信中佐は、ラバウル方面の最前線を視察する途中の1942年(昭和17年)7月23日に、トラック泊地に立ち寄った。夜、辻は海軍専用の料亭で第四艦隊の招待を受けた。辻は井上について「この提督は武将という感じがしない。上品な風貌に洗練されたもの腰である。絽の羽織袴すがたで、如才ない態度からはたぶんに政治家のような感じをうける」という評価をしており、接待にあらわれた芸者達を見て「第一線の様相とかけはなれた情緒だった」とも回想している。 詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 1942年7月、中部ソロモン方面に陸上機の基地建設を検討していた井上は、ガダルカナル島の基地設定に着手した。日本軍の最前線基地であったラバウルからは直線距離で1,020キロ離れていた。飛行場建設によるガダルカナル進出は失敗に終わり、壊滅的な消耗を受けることになる。海軍に呼応して兵力を進出させ、大きな損害を被った陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍が勝手に飛行場を作ったことにあると批判している。 5月3日、日本軍はツラギ島を占領。翌4日、横浜空の飛行艇がツラギに進出。ツラギ島に進出していた横浜空司令の宮崎重敏大佐から、第25航空戦隊司令官の山田定義少将に「ツラギ島対岸のガダルカナル島に、飛行場建設の適地あり」という報告があった。5月25日、25航戦と第8根拠地隊の幕僚・技術者を乗せた九七式飛行艇によって、ガ島を中心とするラバウル以南の島々の航空偵察が行われた。この偵察結果を受けて山田少将は6月1日に第十一航空艦隊の参謀長・酒巻宗孝少将に調査結果を報告し、「急ぎ、ガダルカナル島への飛行場建設に取りかかるべし」と意見具申した。ミッドウェー海戦(6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告を受けた連合艦隊司令部は、ラバウルからガダルカナルが遠すぎることを理由に難色を示した。その理由は零戦の航続距離では、ラバウルを基地として、ガダルカナル上空の制空権を確保できず、ラバウルとガダルカナルの中間にもう一つの基地が必要になるためであった。連合艦隊の要望に基づき、25航戦は、ラバウルとガダルカナルのほぼ中間にあるブーゲンビル島・ブカ島を2度にわたり調査したが、いずれも地勢に難があり、ガダルカナルへの飛行場造成以上に日数を要するという結論となった。なお、25航戦にはミッドウェー海戦で日本が主力4空母を喪失したことが知らされておらず、この方面の制空権は容易に確保できるという考えがあった。6月19日、連合艦隊司令部は、参謀長の宇垣纏中将の名で「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度(たし)」と現地部隊に訓電した。連合艦隊司令部の訓電を受けた現地部隊の25航戦、8根、及び、この方面の総指揮を執る第四艦隊司令部から参謀が派遣され、再度のガダルカナル上空からの航空偵察が行われた。島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設に最適と結論した。連合艦隊司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊、ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊をガダルカナル飛行場建設に当たらせることを決意し、両設営隊の本隊を乗せた輸送船団は、6月29日にトラックを出港、7月6日にガダルカナルに上陸した。 軍令部作戦課航空主務参謀三代辰吉中佐によれば、ガダルカナルに陸上飛行場の適地はあるが、飛行機を配備するにはまだ不足しているので水上機でやろうと考えており、飛行場の造成に関しては軍令部は知らず、現地部隊の第四艦隊が勝手に始めたものと証言している。また、当時の参謀本部作戦課長の服部卓四郎大佐、陸軍省軍務局長の佐藤賢了少将も「飛行場建設のことは全く知らなかった」と書いている。参謀本部参謀辻政信陸軍中佐は、7月28日ラバウルで海軍側とポートモレスビー作戦について会議した際、ガダルカナル島飛行場建設中の話がはじめて出たと回想している。だが設営隊本隊上陸の翌日7月7日、軍令部作戦課は参謀本部作戦課に「FS作戦の一時中止」を正式に申し入れる文書を提示しており、その文書に「ガダルカナル陸上飛行基地(最近造成に着手、8月末完成の見込)」と記されている。 10月7日、井上は連合艦隊司令長官・山本五十六に連合艦隊旗艦大和へ招かれた。海軍兵学校長から、10月1日付で第十一航空艦隊司令長官に親補された草鹿任一中将(井上と海兵同期)が、内地からラバウルへ赴任する途中にトラック在泊の「大和」に立ち寄ったので、山本が草鹿を主賓とする夕食会を開き、井上も呼んだものである。この夕食会で、山本は井上が草鹿の後任の兵学校長に決定しており、海軍大臣の嶋田繁太郎から相談され、井上を兵学校長に推薦したのは山本自身だと告げた。この夜、草鹿の申し出によって井上は宿舎で草鹿から兵学校長の引き継ぎを受けた。この時の心境を井上は、「自分は戦が下手で幾つかの失敗を経験し、海軍兵学校の校長にさせられた時は、全くほっとした」と語っている。
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