第二段作戦とは? わかりやすく解説

第二段作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 07:42 UTC 版)

第二段作戦(だいにだんさくせん)は、大東亜戦争における日本軍南方作戦第一段作戦)に続く攻略作戦である。南方作戦で獲得した占領地の防備のために米豪の連絡遮断、早期終戦のためにハワイ占領を目的とした。 ミッドウェー海戦の敗退とガダルカナル島の放棄により計画は中止され、1943年(昭和18年)3月に第三段作戦が発令された。


  1. ^ 戦史叢書77大本営海軍部・聯合艦隊(3)昭和十八年二月まで1頁
  2. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦40頁
  3. ^ 千早正隆『日本海軍の驕り症候群 下』中公文庫、1997年11月、21-31頁。ISBN 9784122029934
  4. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦44頁
  5. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦45頁
  6. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦47-48頁
  7. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦52-53頁
  8. ^ 戦史叢書43ミッドウェー海戦54頁
  9. ^ a b c d 戦史叢書43ミッドウェー海戦90頁
  10. ^ a b 戦史叢書43ミッドウェー海戦89頁
  11. ^ a b ゴードン・W・プランゲ『ミッドウェーの奇跡 上』原書房、2005年2月、50頁。ISBN 9784562038749
  12. ^ 淵田美津雄・奥宮正武『ミッドウェー』朝日ソノラマ、1982年2月、411頁。ISBN 9784257170020
  13. ^ 秦郁彦『実録太平洋戦争』光風社、1995年5月、35頁。ISBN 9784875190257


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第二段作戦

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山本五十六」の記事における「第二段作戦」の解説

マレー作戦真珠湾攻撃マレー沖海戦に始まる南方作戦第一段作戦)で大本営要望通り成功を収めると、山本は第二段作戦に取り掛かった山本真珠湾攻撃前に対米最後通告遅れないように中央対し確認していたが、駐米大使館の失態により結果的に遅れていた。山本騙し打ちの声はアメリカ宣伝とはじめ考えていたが、1942年昭和17年2、3月ごろから本当に遅れたのではと考え始めていた。このため山本積極作戦立ち直り困難にして早急に敵の戦意喪失が必要と考えた結果的に真珠湾攻撃宣戦布告前に行われアメリカ国民激昂したことに山本心を痛め「僕が死んだら、陛下日本国民には、連合艦隊には決し初めからそういう計画をしておりませんと、そうはっきりと伝えて欲しい」と周囲語っている。 4月4日誕生日に、勲一等功二級勲章贈られた。山本は「こんなもの貰って良いのかな」「自分アメリカ軍砲艦南京近く沈めた以外何もしてはおらん軍令部総長功一級の関係からか」と恥ずかしがっていた。 軍令部米豪分断作戦を、連合艦隊司令部当初インド洋作戦主張し軍令部却下されるハワイ攻略作戦へと重点を移す。連合艦隊司令部は、山本の望むハワイ攻略にらんだミッドウェー島攻略作戦独自に作成し早く認めさせるため大本営の望むFS作戦組み入れ4月1日までに幕僚にまとめさせた。連戦連勝驕りから成功前提スケジュール組まれ敵勢力を事前に調べこともしなかった。作戦案は4月3日軍令部持ち込まれたがFS作戦進めたい軍令部作戦課はこれに反対した。これに対し連合艦隊参謀渡辺安次からミッドウェー攻略作戦認められなければ山本は職を辞す伝えられた。しかし軍令部作戦課は反対意思変えなかった。4月5日渡辺軍令部次長伊藤整一から理解得て軍令部総長永野修身まで伝えられ第一部長・福留繁が召致され協議の末、FS作戦修正加えて連合艦隊案が採決され、第二段作戦の骨子となった軍令部によれば決め手は「山本十分な自信があると言うから」であったという。首席参謀黒島亀人によればミッドウェー作戦における山本辞職示唆脅しではなく決意していたという。また、山本幕僚は一航艦の南雲長官草鹿参謀長批判的であり、南雲第一航空艦隊長官から更迭すべきと要望したが、「それでは南雲悪者になってしまう」と答えて却下した2月22日には日本海軍潜水艦によりアメリカ本土砲撃成功したほか、アメリカ西海岸沿岸大規模な通商破壊戦行っている。これに対してアメリカ海軍4月18日ドーリットル空襲により日本本土初空襲に成功山本国民から非難投書があった。山本以前から本土空襲による物質的精神的な影響重視していたため、一層ミッドウェー攻略作戦の必要を感じた連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば山本日本空母によるハワイ奇襲企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対してアメリカもまた奇襲企図できると考えていたようであるという。 5月8日珊瑚海海戦日本軍失敗しポートモレスビー作戦延期になり進攻初め止められた。連合艦隊司令部では徹底して追撃せず北上退避した第4艦隊司令長官井上成美臆病風攻撃精神欠如非難した山本は「珊瑚海でもはじめは相当苦戦しましたが結局は実力に物を云はせて押切つたわけでした」と知人語っている。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 ミッドウェー島攻略アメリカ機動部隊殲滅目的とするミッドウェー作戦6月7日決行予定計画される4月22日帰還したばかりの実行部隊である第一航空艦隊知らされると、山口多聞源田実から戦力一度立て直すべき、準備も間に合わず時期尚早激し反対があったが山本連合艦隊司令部はすでに決まったことであるとその声を黙殺した。第二艦隊司令長官近藤信竹からも、「ミッドウェー作戦をやめアメリカオーストラリア遮断集中すべき」と意見があったが山本奇襲できれば負けない答えた。またミッドウェー保持補給には考えがなく、参謀長宇垣纒保持不可能な守備隊施設破壊して撤退する答えている。山本戦訓研究会で「長期持久守勢を取ることは、連合艦隊司令長官としてできぬ。海軍は必ず一方攻勢をとり、敵に手痛い打撃与える要あり。敵の軍備力は我の5から10倍なり。これに対し次々叩いてゆかなければいかにして長期戦できようか。常に敵の手痛いところに向かって猛烈な攻勢加えねばならぬ。しからざれば不敗態勢など保つことはできぬ。これに対してわが海軍軍備一段工夫要す従来ゆき方とは全然異ならなければならぬ。軍備重点主義によって整備しこれだけは敗けぬ備えをなす要あり。わが海軍航空威力が敵を圧倒することが絶対必要なり」と発言5月1日から4日までの図上演習ではミッドウェー攻略中に空母部隊出現日本空母部隊大被害を受ける結果が出るが、宇垣から「実際作戦ではこのようなことにならないよう指導する」と判定やり直し被害下方修正が行われた。また戦訓研究会図上演習でも各部隊から延期求められ攻略目的とする空襲敵機部隊迎撃のどちらが主目的なのか、山本乗る大和」をはじめとする主部隊がなぜ支援の届かないはるか後方からついてくるのかといった疑問出た。またこの頃連戦連勝から軍全体として気が緩み機密保持保たれておらず取り締まるべき連合艦隊司令部も同様であった作戦準備も遅れ延期要望が相次ぎ軍令部2、3週間遅らせることを勧めた聞かず5月25日最後図上演習では攻略作戦成功後の検討だけであった最終的に機材が間に合わずミッドウェー作戦1日遅らせることを認めたが、攻略日の変更はなかった。戦艦群(特に低速伊勢型戦艦扶桑型戦艦)が作戦加わったことについて、山本事前作戦会議で「情だよ」と答えている。 ミッドウェー海戦直前5月14日山本眼鏡をかけマスクをして変装すると、呉駅愛人河合千代子落ち合った山本病み上がりだった河合背負って人力車まで運んだ河合が呉を去る時は、列車窓越しに強く握り合って別れ惜しんでいる。直後には「私の厄を引き受けて戦ってくれている千代子に対しても、国家のため、最後御奉公精魂を傾ける終わった世の中から逃れて二人きりなりたい5月29日には私も出撃して三週間洋上に出るが、あまり面白いことはないと思う」という趣旨の手紙を送ったミッドウェー作戦前の山本の大和航海中における生活は以下のようなのだった。まず午前6時ごろ艦橋姿を現すと、無言長官専用椅子に座る。当時艦長高柳儀八大佐参謀長宇垣纏言葉をかわすこともなく、広い艦橋沈黙包まれたという。朝食後の作戦会議では、幕僚全員発言するよう促した朝夕30分の入浴習慣は、平時戦時停泊中、航海中とも変わることがなかった。午後8時になると艦橋作戦室参謀渡辺安次将棋興じ4時間以上指すこともあった。このため午後8時以降先任参謀宇垣黒島ではなく渡辺思われるほどであった山本連合艦隊ミッドウェー作戦敵機部隊誘い出し撃滅することを主目的として説明したが、軍令部ミッドウェー島攻略支援主目的として示した。そのため実行部隊連合艦隊意図徹底されなかった。山本連合艦隊司令部第一航空艦隊南雲艦隊司令部対し命令には書きくわえなかったが、攻撃半数待機させ敵機部隊による側面からの攻撃備えるように指導した。しかし連合艦隊司令部敵機部隊ハワイにおり、出現ミッドウェー作戦成功後でしか想定せず図上演習もしなかった。白石萬隆によれば連合艦隊若干企図暴露して敵艦隊を誘いだそうとしている節があったという。真珠湾にいるはずである敵機部隊動向情報南雲艦隊から機を逸せず知らせてほしいと出撃前に頼まれ作戦転換連合艦隊から知らせることになっていたが、連合艦隊司令部敵機部隊真珠湾出たらしいことを察知したにもかかわらず南雲艦隊伝えることを怠った連合艦隊司令部5月中旬より敵通信増加を気に止めなかったが、6月3日までに入手した情報から我が動静偵知活発に動いている、警戒すべきも好ましいと考えていた。4日ごろには敵機部隊存在する兆候をつかみ、幕僚が「南雲艦隊知らせますか?」と山本相談したが、山本は「敵に無線傍受される恐れがあるし、南雲たちも気づいているだろう」と返答し南雲艦隊へは伝えられなかった。また連合艦隊全部隊へ東京からの甘い状況判断流し続けたままであった。そのため南雲艦隊周囲敵機部隊はいないものとして行動しており、攻略のための攻撃が不十分と知ると待機指示され攻撃隊を使用した参謀長草鹿龍之介によれば山本望み南雲幕僚もよくわかっており、状況が許す限りそうしたが、ミッドウェー基地から航空攻撃があり、敵空母発見ない状況半数無期限に控置しておくのは前線指揮官としては耐えられない後で問題だったとしても当時の状況では南雲決定正しかった」という。 6月5日ミッドウェー海戦において、日本軍ミッドウェー島攻撃中に敵機部隊から攻撃を受け、南雲艦隊主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する山本完成したばかりの戦艦大和」に座乗して機動部隊後方航海し米軍とは全く交戦しなかった。空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の被弾炎上という急報を「大和作戦室渡辺安次将棋指している時に受け取ったが、「うむ」「ほう、またやられたか」の一言だけをつぶやき将棋はやめなかった。また、日本主力空母4隻が撃沈された際には「南雲帰ってくるだろう」と述べた翌日ミッドウェー島砲撃する案を渡辺提案し黒島同意する山本はそれを却下した山本幕僚敗因責任は私にある一航艦を責めてはいかんと言い第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介批判的な黒島に対しても「南雲草鹿責めるな」とくぎを刺した大敗後、帰還した草鹿龍之介の「責任を取るべきところではあるが雪辱機会与えて欲しい」という言葉に、山本は「今回のことで誰か腹を切らねばならぬとしたらそれは私だ」と答え再編され空母機動部隊第三艦隊)の指揮引き続き南雲草鹿に採らせた。山本南雲に「今次戦果に関して同憂次第なるも、貴隊既往赫々たる戦績比すれば、なお失うところ大なりとはせず。幸に貴長官再起復讐決意烈々たるを拝聞し、君国のため真に感激堪えず願わくば最善つくして艦隊の再編成を完了し過去神技加ふるに、今次教訓加え一挙敵を覆滅するの大策に邁進せられんことを。切に貴官のご勇健を祈る」との手紙を送っている。宇垣参謀長によれば山本内心は「全責任自分にある」「下手の所ありたらば今一度使えば必ず立派に仕遂げるべし」だったという。 日本帰還後作戦研究会でも「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及敗因研究が行われることはなかった。7月12日山本以下連合艦隊司令部参謀達(宇垣参加せず)は料亭宴会行い着任したばかりの土肥一夫少佐によれば一同何事もなかったかのように陽気であったという。ミッドウェー海戦大敗北後南雲艦隊将兵緘口令がしかれたが、山本名刺近況書き愛人河合千代子送っている。海軍兵学校監事長・大西新中将は、1945年昭和20年8月15日玉音放送後、全校生徒前にミッドウェー海戦負けた時、Y元帥は当然腹を切るきだった」と断言し温情主義情報隠蔽敗戦招いた指摘した

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第二段作戦

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栗田健男」の記事における「第二段作戦」の解説

詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 6月ミッドウェー海戦攻略部隊支援隊として参加麾下重巡三隈を失う。重巡最上」と「三隈」の衝突後、この2隻を置き去りにして撤退行動続けたことが問題とされた。一昼夜無線封止したため味方である連合艦隊司令部ですらどこに栗田部隊がいるかわからない状態になったその後安全圏退避した後に初め位置報告をしている。その間栗田見捨てた重巡三隈」は米軍機部隊追撃により撃沈され、最上朝潮荒潮辛うじて自力退避成功している。 インド洋作戦などで、航空支援がない中小艦船脆弱であることを日本側の現場指揮官達は良く知っていたが、連合艦隊機動部隊壊滅し制空権失ったのに第七戦隊だけでのミッドウェー砲撃命令をだし、それもミッドウェーから90浬の近距離まで接近した頃に撤退命令し撤退対す支援行動一切行わなかった。更に第七戦隊3番艦「三隈」と第七戦隊4番艦「最上」」が衝突した(現地時間6月4日2時18分頃)際、栗田は2時30分にはこれを通報しているが、これに対す連合艦隊上級司令部である第二艦隊からの指示救援行動一切なく、最初指示4時間も経過した6時25であった衝突時点戦隊ミッドウェーから100浬程の地点におり、既に敵に発見されている状況(衝突したそもそもの原因航行中に敵潜水艦タンバー発見して回避行動をとった為)なので、夜明けとともに空襲を受ける可能性高かった栗田損傷少ない「三隈」と艦首失った最上」だけでミッドウェー島から南西トラック諸島避退するよう命じた(のちに6時25分の指示栗田指揮にあった第8駆逐隊駆逐艦2隻〈荒潮朝潮〉を護衛向かわせる事になるが燃料欠乏しており、重巡から燃料分けて急行させたため遅れた)。 栗田自身作戦継続すべく、無傷第1小隊熊野鈴谷)を率いて連合艦隊主力部隊との合流急いだ。これは第七戦隊連合艦隊主隊に合同せよという命令継続しており、栗田にはそれを行う義務あったからである。連合艦隊参謀長宇垣纏は「戦藻録」に「第7戦隊全部集結して最上の護衛に当たるこそ望ましき次第と書いているが、連合艦隊集結命令取消し救援命じ自身らも応援部隊を出さなかった、指示遅れたに関して一切触れていない。また「三隈」と「最上」が米軍機部隊追撃され、「三隈」が撃沈されたのは、レイモンド・スプルーアンス少将が「三隈」を「空母戦艦誤認した」ためだった大破した三隈」の写真見たスプルーアンスは「戦艦爆撃した」とニミッツ提督報告したことを後悔している。重巡三隈撃沈された件に関してミッドウェー海戦における連合艦隊責任事故直接原因三隈最上の信号誤認)を認めつつも、第七戦隊司令官として栗田にも責任があるとする意見もある。熊野艦長田中菊松大佐は、栗田戦意のなさに批判的である。 7月第三戦隊司令官任官10月ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦指揮ヘンダーソン基地艦砲射撃栗田反対態度示していた。この判断当時海軍軍人常識陸上砲台艦船砲撃しあうと、船体揺れ不安定な艦船は不利で安定する陸上砲台が有利)では妥当なものである実際日露戦争緒戦連合艦隊旅順要塞及び艦隊との砲撃戦第一次世界大戦でのガリポリでの戦いで戦艦からの砲撃陸上の敵拠点無力化できず、目的達しえなかった。会議席上でも栗田同じく戦艦による陸上砲撃反対唱える者がほとんどであった山本長官の「第三戦が行かないのであれば、私が大和率いて突入する」という発言受けて栗田作戦引き受けるが、引き受けた以上は成功させるべく、全力注いでおり、打ち合わせ会った奥宮正武(当時第二航空戦隊参謀)は、初め会った栗田首席参謀有田雄三中佐と共に強い自信示していたと述べている。この作戦戦艦伴った砲撃作戦としては唯一の成功となった26日南太平洋海戦参加1943年2月ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦支援1943年8月第二艦隊司令長官親補される。海軍大学校甲種学生経ず司令長官親補された数少ない人物の一人である(栗田拝命した海大乙種同期生の約8割が進み高等数学など主に普通学を学ぶ課程である)。海大甲種受験しているが、相次ぐ転勤激務知られる艦隊勤務のため、勉強の暇がなく、口頭試問不合格になっており、栗田は「頭が悪かったんだな」と述べている。第二艦隊司令官親補された時の心境について「じょうだんじゃない。ねえ。こんな野武士を……だめじゃないか。そう思ったね」と戦後述べている(予備役になれると思っていたという)。 11月ろ号作戦に伴いブーゲンビル島逆上支援のため、第二艦隊主力率いてラバウル泊した際にラバウル空襲遭遇した同年勲一等瑞宝章受章1944年6月マリアナ沖海戦参加その後栗田指揮する第二艦隊は一旦本土戻ったものの、燃料事情考慮してスマトラ島リンガ泊地移動し捷号作戦備えた艦隊訓練当たった

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第二段作戦

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第一航空艦隊」の記事における「第二段作戦」の解説

1942年昭和17年4月10日艦隊編制改訂で、一航艦の麾下部隊として第十戦隊軽巡洋艦長良駆逐艦12隻)が新設され固有編制の直衛駆逐艦部隊を持つようになった将来的には大航続力防空能力備えた秋月型駆逐艦16隻(駆逐隊4隊)で統一する予定だったが間に合わず(1番艦の秋月6月11日竣工)、当分は航続距離長い甲型駆逐艦陽炎型駆逐艦夕雲型駆逐艦)で充当することになった。この時点でも、まだ固有編制だけで作戦を行うことができず、引き続き第二艦隊から第三戦第2小隊霧島榛名)と第八戦隊利根筑摩)に護衛されていた。 詳細は「珊瑚海海戦」を参照 この艦隊編制改訂同時に連合艦隊第二段第一期兵力部署発令した第五航空戦隊翔鶴瑞鶴)はポートモレスビー攻略に伴うMO作戦参加のため、南洋部隊指揮官井上成美第四艦隊司令長官)に編入された。当初派遣される空母加賀だったが、南洋部隊より空母増勢要請があり五航戦変更となった(他に第五戦隊、第7駆逐隊第27駆逐隊増援)。5月上旬ポートモレスビー作戦実施したあと、五航戦6月ミッドウェー作戦には一航艦に戻って参加する予定だった。5月7日-8日珊瑚海海戦において、日本側は軽空母祥鳳沈没翔鶴大破瑞鶴航空隊被害甚大で、翔鶴修理航空隊再建には三ヶ月が必要と見込まれた。連合軍側は空母レキシントン沈没ヨークタウン損傷した機動部隊においては「一航艦の中で一番練度未熟な五航戦が、最精鋭米空母互角に戦って勝利を得た一航戦二航戦なら鎧袖一触である」という驕り見られるようになった詳細は「MI作戦」を参照 4月下旬南雲機動部隊インド洋から内地帰還した5月5日大本営大海第18号大海指第94号により、連合艦隊対しミッドウェー島およびアリューシャン群島西部要地攻略命じた同日連合艦隊命令第12号により、第二段作戦計画明らかにするミッドウェー攻略終えた後は、10月目途ハワイ攻略準備を行う予定であった5月12日連合艦隊命令第14号により、ミッドウェー作戦アリューシャン作戦詳細な作戦要領下令された。機動部隊ミッドウェー島攻略を行う「第一機動部隊」と、アリューシャン方面に向かう「第二機動部隊」に分割された。5月14日五航戦から珊瑚海海戦戦死者報告送られ翔鶴瑞鶴の両艦とも次期作戦使えないことが判明した。そこで五航戦第一機動部隊復帰し内地での修理整備再建命じられた。第一機動部隊のうち作戦参加する空母は4隻(一航戦赤城加賀〉、二航戦飛龍蒼龍〉)、第二機動部隊空母第四航空戦隊の2隻(龍驤隼鷹となった大海第18号から出撃予定日まで一か月もなく、機動部隊開戦以来ヵ月におよぶ作戦行動終えて内地帰投たばかりで、休養整備が必要であった。また第一段作戦終了にともなう大規模な人事異動により艦艇航空隊とも練度低下し各部隊・各艦隊から「時期尚早」との反対意見がでた。作戦事前研究会山口多聞少将二航戦司令官)と源田実中佐連合艦隊司令部反対食いついたが、連合艦隊司令部決定済みとして取り合わなかった。 詳細は「ミッドウェー海戦」を参照 5月28日第一機動部隊第一航空戦隊赤城加賀)・第二航空戦隊飛龍蒼龍)・第三戦第2小隊榛名霧島)・警戒部隊軽巡洋艦長良・第4駆逐隊〈嵐・野分萩風舞風〉・第10駆逐隊秋雲夕雲巻雲風雲〉・第17駆逐隊谷風浦風浜風磯風〉)・燃料補給部隊として内海西部出撃する6月5日-6日にかけてのミッドウェー海戦で、第一機動部隊空母4隻(赤城加賀飛龍蒼龍)と母艦搭載飛行機285喪失した搭乗員は8割が生還)。日本海軍保有する空母正規空母2隻(翔鶴・瑞鶴)、商船改造大型空母2隻(隼鷹飛鷹7月竣工予定〉)、軽空母3隻(龍驤瑞鳳春日丸)に減少し飛行機搭載数の多い攻撃用空母は4隻(翔鶴・瑞鶴隼鷹飛鷹)という状態になった戦訓から大型空母2(攻撃専念)・小型空母1(警戒)で航空戦隊を編成し対空航空決戦徹すること、機動部隊建制化して部隊内の思想訓練統一を図ることになる。7月14日連合艦隊戦時編制改訂にともない第一航空艦隊廃止され第三艦隊として再出発した

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第二段作戦

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宇垣纏」の記事における「第二段作戦」の解説

1942年昭和17年4月28日から1週間かけ、戦艦大和」で「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習が行われた。兵棋図演宇垣統監審判長青軍長官一人三役を担うが、日本艦隊不利な状況にあって日本艦隊攻撃結果大きく被害少なく判定した。この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦最中米空母部隊出現し艦隊戦が行われ、日本空母大被害出て攻略作戦続行難し状況となり、統監部は審判やり直し命じ空母被害減らし空母3隻を残し演習続行させた。数次攻撃空母加賀」が沈没、さらに空母「赤城」に9発命中して沈没する結果出たが、宇垣赤城を3発命中小破変更した爆撃空戦などの審判官規則に従って判決を下そうとしたとき、宇垣日米戦力係数を三対一にするように命じたその後攻略には成功したが、計画より一週間遅れ、艦艇燃料足りなくなり一部駆逐艦座礁した宇垣は「連合艦隊このようにならないように作戦指導する」と明言したその後ニューカレドニアフィジー攻略における図上演習では、沈没したはずの「加賀」を復活させて進行した。この図上演習米軍赤軍指揮官つとめた松田千秋は、既に連合艦隊作戦決定している以上「加賀」を復活させて図上演習続けることはやむをえない述べそもそも山本黒島決定した作戦そのものに無理があったと述べている。沈没した加賀参加については、甚大な被害予想させるような図演結果図演参加者の間での自信喪失に繋がることを懸念したための配慮とする意見もあるが、図上演習作戦計画実行可能性検証し問題点改善策総合的に検討する重要な学習機会でもある。 戦訓分科研究会において、宇垣第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介対し「敵に先制空襲受けた場合或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面たたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「斯かる事無き処理する」と答えたため、宇垣草鹿追及すると、航空参謀源田が「艦攻増槽付した偵察機四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三配当せらるるを以て、之と巡洋艦零式水偵使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。そのため宇垣注意喚起続け作戦打ち合わせ前に第一航空艦隊ミッドウェー攻撃二段攻撃とし、第二次は敵の海上航空部隊備える案になり、安堵した6月5-6日のミッドウェー海戦では、第一航空艦隊主力空母次々被弾炎上連合艦隊司令部では黒島亀人参謀達がパニック陥ったが、宇垣冷静に対応して参加部隊統率して撤退させた。出撃前、第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、攻撃日が決まっているので奇襲機動余地がなく、空母アンテナ受信能力不足で敵情わかりにくいので、連合艦隊敵情把握して作戦転換指示することを宇垣取りつけた。しかし、連合艦隊付近に空母疑い感じ情勢緊迫してきたと判断しながら、甘い状況判断放送東京から全部隊に流したまま、自己判断麾下知らせなかった。宇垣海戦後日記第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している。海戦後旗艦大和」から辞去する草鹿らを慰問し慰問品を送るなど激励している。ミッドウェー山口多聞戦死したことを宇垣は「余の級友中最も優秀の人傑を失ふものなり」と嘆きその後もたびたび山口最期惜しんでいる。宇垣敗因振り返り、「今日の敵は正に飛行機」として高角砲射程延長レーダー活用対潜装備拡充が必要と認識した8月上旬米軍ガダルカナル島上陸により戦艦大和」に乗艦してトラック泊地移動連合艦隊参謀長としてガダルカナル島の戦いが始まる。千早正隆は、ガダルカナル島作戦ころから山本黒島への信頼揺らいでおり、次第宇垣に頼ることが多くなっていたと指摘する10月1日には山本宇垣自室尋ねて雑談し宇垣山本気兼ねなく話せた事を喜んでいる。宇垣は、その後南太平洋海戦第三次ソロモン海戦い号作戦などを指導する11月1日海軍中将進級1943年昭和18年4月18日山本五十六と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機襲撃され山本搭乗機宇垣搭乗機ともに撃墜され山本戦死宇垣負傷した海軍甲事件)。宇垣山本遺骨と共に戦艦武蔵」で内地帰還したその後山本形見として短刀を貰う。陣中録には「かねて山本長身代わりたらんと覚悟せる身が、長官失い、かえって生還す」と記してある。宇垣負傷中も部下使って口述戦藻録記入させた。

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第二段作戦

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近藤信竹」の記事における「第二段作戦」の解説

1942年昭和17年6月MI作戦参加第二艦隊主力とするミッドウェー島攻略部隊担当した戦艦大和」でのミッドウェー作戦事前図上演習で、近藤は、米空母がほぼ無傷な状態であり、ミッドウェー基地にも敵戦力があるため、MI作戦中止し米豪遮断作戦集中すべきと主張したが、連合艦隊長官山本奇襲成功すれば負けない答えたまた、近藤ミッドウェー島占領して補給続かないことを指摘したが、連合艦隊参謀長宇垣纏不可能な守備隊施設破壊して撤退する答えたMI作戦ミッドウェー海戦での敗退中止され攻略作戦実施されなかったため、近藤第二艦隊米軍直接交戦することはなかった(近藤指揮にあった栗田健男中将第七戦隊を除く)。 1942年8月第二次ソロモン海戦参加10月南太平洋海戦参加。これらソロモン方面作戦では南雲忠一率い空母機動部隊第三艦隊)の前衛として展開した第二艦隊指揮した当時近藤機動部隊指揮官南雲忠一中将より先任順位が上であったため、主力部隊率い南雲とその支援部隊率い上級者近藤との間には複雑なものがあったが、近藤南雲行動一切掣肘加えことなくあたかも南雲指揮下にあるかのように行動しており、戦後第三艦隊参謀長だった草鹿龍之介近藤寛容感謝の念表明している。 1942年11月第三次ソロモン海戦参加夜戦米軍駆逐艦を3隻撃沈近藤側は戦艦霧島駆逐艦綾波喪失した近藤は自ら第二艦隊旗艦重巡洋艦愛宕」に座乗して最前線指揮執り、米新型戦艦2隻(ワシントンサウスダコタ)に夜間水雷戦闘挑んだ酸素魚雷自爆により決定的戦果をあげる機会逸した1943年昭和18年2月上旬ケ号作戦ガダルカナル島撤収作戦)で第二艦隊率いて艦隊牽制任務従事する4月18日山本五十六長官海軍甲事件戦死した際には、後任古賀峯一大将着任するまで臨時連合艦隊指揮をとった。同時期には、第四艦隊司令長官小林仁中将第六艦隊司令長官小松輝久中将連名で、内南洋方面マーシャル諸島等)の防備強化について意見具申している。4月29日附で海軍大将進級

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第二段作戦

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朝霧 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「第二段作戦」の解説

詳細は「第二段作戦」および「ミッドウェー海戦」を参照 南方作戦一段落すると、馬来部隊編入されていた各部隊・各艦(第三水雷戦隊を含む)は内地帰投した。5月下旬より、第三水雷戦隊ミッドウェー作戦従事した第20駆逐隊含め三水戦は連合艦隊司令長官山本五十六大将旗艦大和)直率の主力部隊所属する 5月29日朝、主力部隊桂島泊地出撃した。第20駆逐隊第一艦隊司令長官高須四郎中将指揮下の警戒部隊区分されており、6月4日0500に山本長官直率の主力部隊主隊と分離した海戦敗北したあと内地もどった三水戦は、6月下旬より奄美大島方面対潜掃蕩従事した。 「スタブ作戦」も参照 7月下旬第三水雷戦隊インド洋方面通商破壊主目的とする「B作戦」に従事するため、マレー半島西岸メルギー進出したB作戦参加部隊兵力部署において、第20駆逐隊三水司令官指揮下の機動部隊北方隊(軽巡川内〉、第19駆逐隊浦波敷波綾波〉、第20駆逐隊夕霧朝霧天霧白雲〉)に所属していた。 8月7日ガダルカナル島攻防戦開始にともないB作戦中止されるB作戦参加部隊は、とりあえ第七戦隊司令官西村祥治少将指揮下でダバオ回航命じられた。第20駆逐隊マカッサルダバオ経由して8月23日までにトラック泊地進出した

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第二段作戦

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井上成美」の記事における「第二段作戦」の解説

詳細は「珊瑚海海戦」を参照 第二段作戦において、第四艦隊南洋部隊)はMO作戦担当した作戦目標ポートモレスビー海路からの攻略であった井上旗艦鹿島ラバウル進めて指揮を執った。1942年昭和17年5月7日珊瑚海海戦第1日に、米機動部隊攻撃祥鳳南洋部隊所属)が沈んだ時の心境を、井上海戦の後書いた推定される手記に「実に無念であったこのような時に東郷平八郎元帥であればうなさるだろうか考えた心中、『お前は偉そう4F第四艦隊長官などと威張っているが、お前は戦が下手だなあ』 と言われているような無念感じた」という趣旨記述をしている。井上の下で、第四艦隊航海参謀であった土肥一夫少佐によれば7月連合艦隊参謀として連合艦隊司令部着任した際に、第四艦隊司令部から提出され珊瑚海海戦に関する報告書類当時電報綴り赤字で「弱虫!」「バカヤロー」などと多く罵詈雑言書き込まれているのを見たという。 海軍省・軍令部連合艦隊司令部は、第四艦隊司令部珊瑚海海戦での指揮批判した連合艦隊参謀長宇垣纏は、日誌戦藻録」の1942年昭和17年5月8日の項に『4F第四艦隊)の作戦指導全般的に不適切であった小型空母祥鳳」を失っただけで、敗戦思想に陥っていたのは遺憾である』旨を書いている。軍令部第一部第一課作戦班長であった佐薙毅中佐は、日誌に「4F作戦指導消極的であり、軍令部総長永野修身大将は不満の意を表明していた」旨を書いている。 日本軍南洋群島の東と南に占領地広げると、第四艦隊担当戦域となったウェーク島南東方面(ラバウル・ニューギニア・ソロモン諸島)など。第十一航空艦隊11航艦。司令長官塚原二四三中将麾下基地航空隊マーシャル諸島展開し第四艦隊補給担当していたものの、手こずっていた。ミッドウェー作戦の前、トラック第四艦隊司令部連合艦隊参謀説明来てミッドウェー占領後補給第四艦隊担当して頂く」と告げた第四艦隊先任参謀川井巌大佐が、空母2隻基幹航空戦隊を附けてくれなければミッドウェーへの補給など出来ない、と反論した所、ミッドウェーへの補給11航艦が行うことになったという。マーシャル群島展開し第四艦隊から細々補給受けている11航艦が、さらに2,200キロ先のミッドウェーへの補給出来る訳がなかった。もともと担当していた南洋諸島全域加えてウェーク島方面南東方面第四艦隊担当するのは無理があった。7月14日南東方面担当する第八艦隊編成され7月24日ラバウル陸上長官三川軍一中将将旗掲げ統帥発動した。ここに南洋部隊内南洋部隊改称されそれまで南洋部隊指揮下だった第六戦隊重巡4隻)も外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された。 1942年昭和17年7月に、海軍料亭小松」の支店トラック島開業した。これは、井上横須賀で「小松」を経営する山本直夫婦に、1941年昭和16年12月太平洋戦争開戦から間もなく、「トラックには将兵慰安施設一軒しかない士官用の施設として、小松支店トラック出してくれないか」という依頼をしていたためである。その後戦局の悪化敗戦トラック島の「小松」は消滅し看護婦仕事手伝ようになった女子従業員が6人犠牲となった井上は、終戦直後に「小松」を訪ね案内され座敷入らず敷居の外に座って山本直頭を下げ申し訳ありません今度戦争では大変な御迷惑をおかけしたことを、日本海軍代表しておわびいたします」と謝罪した山本は、井上潔い謝罪感銘受けた陸軍参謀辻政信中佐は、ラバウル方面最前線視察する途中1942年昭和17年7月23日に、トラック泊地立ち寄った。夜、辻は海軍専用料亭第四艦隊招待受けた。辻は井上について「この提督武将という感じがしない上品な風貌洗練されたもの腰である。絽の羽織袴すがたで、如才ない態度からはたぶんに政治家のような感じをうける」という評価をしており、接待あらわれた芸者達を見て第一線様相かけはなれた情緒だった」とも回想している。 詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照 1942年7月中部ソロモン方面陸上機基地建設検討していた井上は、ガダルカナル島基地設定着手した日本軍最前線基地であったラバウルからは直線距離で1,020キロ離れていた。飛行場建設によるガダルカナル進出失敗終わり壊滅的な消耗を受けることになる。海軍呼応して兵力進出させ、大きな損害被った陸軍は、ガダルカナル島を巡る大悲劇の根本原因は、海軍勝手に飛行場作ったことにあると批判している。 5月3日日本軍ツラギ島占領。翌4日横浜空飛行艇ツラギ進出ツラギ島進出していた横浜空司令宮崎重敏大佐から、第25航空戦隊司令官山田定義少将に「ツラギ島対岸ガダルカナル島に、飛行場建設適地あり」という報告があった。5月25日25航戦と第8根拠地隊幕僚技術者乗せた九七式飛行艇によって、ガ島中心とするラバウル以南島々航空偵察が行われた。この偵察結果受けて山田少将6月1日第十一航空艦隊参謀長酒巻宗孝少将調査結果報告し、「急ぎガダルカナル島への飛行場建設取りかかるべし」と意見具申した。ミッドウェー海戦6月5日-7日)の後に、11航艦司令部からの報告受けた連合艦隊司令部は、ラバウルからガダルカナルが遠すぎることを理由難色示した。その理由零戦航続距離では、ラバウル基地として、ガダルカナル上空制空権確保できず、ラバウルガダルカナル中間もう一つ基地必要になるためであった連合艦隊要望に基づき25航戦は、ラバウルガダルカナルのほぼ中間にあるブーゲンビル島ブカ島2度にわたり調査したが、いずれも地勢に難があり、ガダルカナルへの飛行場造成以上に日数要するという結論となった。なお、25航戦にはミッドウェー海戦日本主力4空母を喪失したことが知らされておらず、この方面の制空権容易に確保できるという考えがあった。6月19日連合艦隊司令部は、参謀長宇垣纏中将の名で「ガダルカナル航空基地次期作戦の関係上、八月上旬迄に完成の要ある所見承知し度(たし)」と現地部隊訓電した。連合艦隊司令部訓電受けた現地部隊25航戦、8根、及び、この方面の総指揮執る第四艦隊司令部から参謀派遣され再度ガダルカナル上空からの航空偵察が行われた。島のルンガ川東方、海岸線から2キロ入った所が飛行場建設最適結論した連合艦隊司令部は、ミッドウェー攻略作戦のために編成されていた第11設営隊ニューカレドニア攻略作戦のために編成されていた第13設営隊の2個設営隊ガダルカナル飛行場建設当たらせることを決意し、両設営隊本隊乗せた輸送船団は、6月29日トラック出港7月6日ガダルカナル上陸した軍令部作戦航空主務参謀三代辰吉中佐によればガダルカナル陸上飛行場適地はあるが、飛行機配備するにはまだ不足しているので水上機でやろうと考えており、飛行場造成に関して軍令部知らず現地部隊第四艦隊勝手に始めたものと証言している。また、当時参謀本部作戦課長服部卓四郎大佐陸軍省軍務局長佐藤賢了少将も「飛行場建設のことは全く知らなかったと書いている。参謀本部参謀辻政信陸軍中佐は、7月28日ラバウル海軍側とポートモレスビー作戦について会議した際、ガダルカナル島飛行場建設中の話がはじめて出た回想している。だが設営隊本隊上陸翌日7月7日軍令部作戦課は参謀本部作戦課に「FS作戦一時中止」を正式に申し入れる文書提示しており、その文書に「ガダルカナル陸上飛行基地最近造成着手8月完成見込)」と記されている。 10月7日井上連合艦隊司令長官・山本五十六連合艦隊旗艦大和招かれた。海軍兵学校長から、10月1日付で第十一航空艦隊司令長官親補された草鹿任一中将井上海兵同期)が、内地からラバウル赴任する途中トラック在泊の「大和」に立ち寄ったので、山本草鹿主賓とする夕食会開き井上呼んだのである。この夕食会で、山本井上草鹿後任兵学校長に決定しており、海軍大臣嶋田繁太郎から相談され井上兵学校長に推薦したのは山本自身だと告げた。この夜、草鹿申し出によって井上宿舎草鹿から兵学校長の引き継ぎ受けた。この時の心境井上は、「自分は戦が下手で幾つかの失敗経験し海軍兵学校校長させられた時は、全くほっとした」と語っている。

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