第2次オイルショック(第2次石油危機)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:41 UTC 版)
「オイルショック」の記事における「第2次オイルショック(第2次石油危機)」の解説
1979年1月にイラン革命が発生。イランでの石油生産が中断したため石油需給は逼迫した。さらにOPECが1月、4月、7月に段階的に原油価格を引き上げたことで、世界経済に影響を及ぼすこととなった(1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計 14.5 %値上げする」ことを決定していたが、4段階目の値上げは総会で合意が形成できず、実際には3段階までであった)。 1980-1981年に、OECD加盟国も非産油途上国もユーロ・シンジケートローンによる借入額を倍化させた。前者は411.6億ドルから973.7億ドルとなり、後者は281.6億ドルから409.3億ドルとなった(世界借入高は799.2から1459.1)。 しかし、第1次オイルショックによる減量経営や省エネルギー対策などの浸透により経済に対する影響は第1次石油危機ほど酷いものにはならなかった(深夜のテレビ番組放送の自粛や、第1次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが行われた)。 小宮隆太郎は、第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省して、いち早く強い金融引き締めスタンスを採用した事にあり、それに応じて労働組合・企業も賃上げなどのコストプッシュの要因を抑えるべく、労使協調路線を採用した事で事態を乗り切ったためとしている。経済学者の伊藤修は「日銀の早急な金融引き締め、労使の賃上げ抑制、省資源・省エネルギーの進行、円高による輸入価格の抑制などが原因で、景気の落ち込みは軽微で済んだ」と指摘している。 値上げも第1次のときほど長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。日本では第1次オイルショックによる不景気から立ち直る矢先の出来事だったが、円安による輸出増加もあり一部の構造不況業種を除いて比較的早期に危機を切り抜けた。 一方で米国のインフレの亢進と長期金利の高騰にともなう金融市場の混乱が深刻さを増しており、石油危機を端緒とした世界同時不況は米国経済の復調をまつ1983年ころまで長引いた。
※この「第2次オイルショック(第2次石油危機)」の解説は、「オイルショック」の解説の一部です。
「第2次オイルショック(第2次石油危機)」を含む「オイルショック」の記事については、「オイルショック」の概要を参照ください。
- 第2次オイルショックのページへのリンク