精神的空白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 08:38 UTC 版)
兄妹の父親の平岡梓は、二人が時々喧嘩をしながらも仲が良く、三島は妹を可愛がり、美津子もそんな兄を敬愛してよく兄の指示に従っていたと語り、美津子が入院した時の三島の看病ぶりについて、「あの時の倅の妹思いと申しますか、その心のやさしさには、僕も倅に手をついてお礼をしてやりたいくらいの気持でした」と述べ、いよいよ美津子が死ぬ時に、「お兄様アリガトウ」とやっと言い残して逝ったのを、三島が妹の口に「吸い込み」をあてながら聞いていた姿を述懐しつつ、その後も、その微かな「アリガトウ」という言葉が耳について離れないと三島が言っていたと語っている。 美津子の早世は、後の三島の生活や文学活動に様々な影響を与えたが、三島は、1945年(昭和20年)から戦後数年にかけての自身の精神的危機状態について次のように語っている。 昭和二十年から二十二・三年にかけて、私にはいつも真夏が続いてゐたやうな気がする。あれは兇暴きはまる抒情の一時期だつたのである。(中略)私は妹を愛してゐた。ふしぎなくらゐ愛してゐた。(中略)ある日、妹は発熱し、医者は風邪だと言つたが熱は去らず、最初から高熱がつづき、食欲が失くなつた。(中略)チフスと診断が確定すると、当時隔離病室が焼けてゐたので、そのまま避病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看護したが、妹は腸出血のあげくに死んだ。死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちやま、どうもありがたう」とはつきり言つたのをきいて、私は号泣した。(中略)戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。種々の事情からして、私は私の人生に見切りをつけた。その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今思ひ出しても、ゾッとせずにはゐられない。年齢的に最も溌剌としてゐる筈の、昭和二十一年から二・三年の間といふもの、私は最も死の近くにゐた。 — 三島由紀夫「終末感からの出発―昭和二十年の自画像」 佐藤秀明は、この一文について、「看病に明け暮れた三島は号泣した。頭が下がるほど一生懸命に看病したと、父の梓は書いている」と述べ、それに比し、三島がごくあっさり書こうとしている分、「三島の内的な昂ぶりが尋常でないことを窺わせる」とし、20歳の三島が、「苦しく辛い感情を引きずって戦後を出発しなければならなかった」と解説している。 三島は他のエッセイ『心ゆする思ひ出――「銀座復興」とメドラノ曲馬』(1953年)でも妹の死について触れており、自決の前年の1969年(昭和44年)1月の『毎日グラフ』のインタビューでは、「泣かれたことがありますか?」と問われ、「昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない」と答えている。
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