紀元前50年代
紀元前50年代
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詳細は「紀元前50年代」を参照 紀元前59年西域の南北両道全てを統括する西域都護が設置され鄭吉が任じられる。 前漢の廃帝昌邑王劉賀が死去し、江西省南昌市の海昏侯墓(中国語版)に葬られる。 カエサルらにより「アクタ・ディウルナ(日々の議事録)」と「アクタ・セナトゥス(元老院議事録)」が出される。 カエサルらにより「ユリウス農地法(イタリア語版)(センプロニウス農地法の補正案)」が制定される。 紀元前58年 - カエサルがガリア戦争を開始(- 紀元前51年)。 紀元前56年 - ルッカ会談でカエサルとポンペイウスとクラッススが密約を行う。 紀元前54年 - ローマによるブリタンニア侵攻。 紀元前54年 - 匈奴が東匈奴と西匈奴に分裂。 紀元前53年 - カルラエの戦いでパルティアがクラッススを破る。 紀元前52年アレシアの戦いでカエサルがウェルキンゲトリクス率いるガリア連合軍に勝利。ガリアの組織的な抵抗は終了し、翌年までには属州ガリアとして編入される。 弥生時代の池上曽根遺跡から出土した神殿らしい高床式建物に使用されていた柱を年輪年代測定法で検査すると、この年の伐採ヒノキ材であることが判明した。 紀元前51年匈奴の呼韓邪単于が前漢に入朝し、宣帝と会見する。 石渠閣会議。 紀元前50年 - エジプトの「デンデラの黄道帯(英語版)(ルーヴル美術館蔵)」の天体図はこの年の天球配置を示す。 紀元前50年頃 - アテナイの「ローマ時代のアゴラ」に「風の塔(アンドロニコスの時計塔)」が建てられる。
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紀元前50年代
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「クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス」の記事における「紀元前50年代」の解説
紀元前61年か紀元前60年にカトゥルス・カピトリヌスが死去すると、オプティマテス(門閥派)は実質的に指導者を欠いた状態になった。それでも、ホルタルスは積極的に政治に関わることはなかった。但し、法廷には姿を見せていた。紀元前60年の終わりに、ウァレリウスと言う氏族名以外は不明の人物の弁護を行い、無罪を勝ち取った。キケロによると、この法廷はその年の執政官ルキウス・アフラニウスに譲歩したと考えられている。紀元前59年、ホルタルスはキケロと共に、アシア属州総督職の間に権力乱用で訴えられたルキウス・ウァレリウス・フラックスを弁護した。ホルタルスがが最初に演説を行い、告発の矛盾を証明しようとしたが、キケロは告発はフラックスの政治的敵対者によって捏造されたものであると宣言した。結果は無罪となった。 紀元前58年には、キケロが告訴された。訴えたのは護民官プブリウス・クロディウス・プルケル(パトリキのクラウディウス氏族の出身だが、護民官になるためにクロディウスと名を変え、プレブスとなっていた)で、カティリナ裁判で民会の承認なしに死刑を実施したことが問題とされたのだ。ホルタルスはキケロを支持したが、暴動が発生してあやうく死にかけた。 紀元前56年、ホルタルスはローマに亡命していたエジプト王プトレマイオス12世アウレテスの王位復帰に関する議論に、積極的に参加している。既に第一回三頭政治(ポンペイウス、クラッスス、カエサル)の時代であったが、ポンペイウスに軍を率いさせてエジプトに派遣しようとした。マルクス・カルプルニウス・ビブルス(紀元前59年執政官)は、軍事力ではなく3人の大使を派遣することを提唱した。ホルタルスとルクッルスは、軍は送らずせずキリキア属州総督プブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルを派遣することを提案した。結局、王は何も達成できないことを悟り、ローマを後にした。 紀元前56年3月には、キケロやクラッススとともに、暴力行為と違法な権力闘争で告発されたプブリウス・セスティウスを弁護した。紀元前54年の夏には、プロキリウスという人物を弁護したが、敗訴に終わった、その後キケロと共にマルクス・アエミリウス・スカウルス(紀元前56年法務官)、グネウス・プランキウス(紀元前54年按察官)を弁護した。これらの裁判では、無罪を勝ち取った。紀元前52年、ホルタルスは、プブリウス・クロディウスの暗殺を組織したティトゥス・アニウス・ミロ(紀元前55年法務官)の裁判で判事の一人を務めた。 ホルタルスの晩年は、長男との対立によって暗くなっていた。甥のマルクス・ウァレリウス・メッサッラ・ルフス(紀元前53年執政官)を後継者にしようとさえ考えていたが、最終的にはこの意向を放棄した。紀元前51年にメッサッラは選挙違反行為で告発されたが、ホルタルスは彼の無罪を獲得した。しかし市民は皆、メッサッラが有罪であると考えており、ホルタルスは劇場でブーイングされるという、人生はじめての経験をした。ホルタルスの最後の演説は、紀元前50年4月5日に行った、アッピウス・クラウディウス・プルケル(紀元前54年執政官)の裁判であった。ホルタルスはプルケルの義理の息子であるマルクス・ユニウス・ブルトゥスと共に弁護を行った。同年6月、ホルタルスは死去した。古代の著者は、内戦が始まる前に死去したのは幸いであったと述べている。 ホルテンシウスは、未来が自分が予想していた通りになるのを見ずにすんだので、いい時に死去したと言えるだろう。個人的な野心が原因で内戦が起こりそうになっており、わが国の政治に平和の希望が失われたのを見て、私達は差し迫る破局を共に嘆いていたからだ。ところが、いつも運のいい彼は、不幸な事態が起こる前に死去したので、それを見ることを免れた。 キケロ『ブルトゥス』、329.
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