経済的窮地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:52 UTC 版)
1924年(大正13年)3月の父親・久雄の急死以降、牧野の生家は父の残した借金や負債を抱え、信一名義となった家屋敷や土地は親類に詐取され、没落してゆくが、牧野自身も1927年(昭和2年)の春頃から神経衰弱に陥り、プロレタリア文学の進出に押され、小田原での静養生活をしながら、東京へも上京し、雑誌編集に携わる往復生活を送っていた。そんな中、1930年(昭和5年)には、 井伏鱒二、小林秀雄、河上徹太郎らとも知り合い交流し、翌年の『ゼーロン』が発表される10月には、雑誌『文科』を創刊主宰する。 こういった背景から堀切直人は、この中期の牧野が「小田原での身ぐるみ剥されるような経済的窮乏化」のために「自分の足場が崩れ去るような心理的な遍迫感」に悩まされながらも、その一方で、「東京では優れた文学的才能を秘めた友人たちに取り巻かれて、生涯でおそらく最も意気軒昂としていた時期」であったと解説し、牧野が「禍に押しつぶされまいとして、禍を転じて福となすような文学的な転換装置を苦心の末に発明工夫し、これをもって窮地を精神的に切り抜けることにみごとに成功した」と述べている。 そして「東京での有為な若者たち」との交遊の自信をもった牧野は、「失われた物質的富を精神的富に変換させて作品世界のなかに転生させるという、一種の錬金術的作業に従事した」と堀切は考察し、こういった「所与のマイナスの生活条件が、幻視者としてのプラスの条件へまるごと一挙に逆転する」という「幸運」に恵まれたことが、『ゼーロン』を「筆頭」とする中期の牧野文学が「驚異的に開花」した要因であると解説している。
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