縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行とは? わかりやすく解説

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縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 01:24 UTC 版)

山内清男」の記事における「縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行」の解説

1937年1月原始文化研究会先史考古学会に改称し雑誌先史考古学』の発刊始める。その創刊号で、山内は自らの理論を「縄紋土器型式細別大別」で提示し当時日本各地判明していた縄文土器型式編年的な位置付けについて「縄紋土器型式大別〔と細別編年表」として発表した当時記紀の記述あるいは縄紋土器内部に0宋銭包含されていた事例などを根拠に、東日本(特に東北地方)では石器時代西日本鎌倉時代まで続いていたという主張があった中で、東北地方分布する大洞土器一般には亀ヶ岡式として知られる)と、それよりも西に分布する縄文土器共伴関係などを追跡することで、縄文時代全国的にほぼ同じ時期終末迎えるとした山内研究は、当時考古学界に大きな衝撃与えた。 さらに山内は、全国土器編年をより確実なものにするために、それまで古今伝授的に供覧していた型式基準となる土器(標式、標本)の写真一般に公表することを考え1939年7月から『日本先史土器図譜 第一部関東地方』の刊行開始した第一部は第1輯「十王台式」(これは弥生土器である)から1941年8月刊行の第12輯「子母口式」まで続けられた。山内は『第二部東北地方』の刊行準備進めていたが、準備中印刷所企業整理鉄材回収閉鎖され、さらに仙台疎開している間に1945年5月空襲写真乾板(大半未発表)を預けていた夫人実家小石川)、土器保管していた芹沢長介宅・大山史前学研究所渋谷区)が全焼してしまい、以降刊行不可能になってしまった。

※この「縄文土器編年と『日本先史土器図譜』の刊行」の解説は、「山内清男」の解説の一部です。
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