織田信長の時代
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天文12年(1543年)、尾張国丹羽郡御供所村(現在の愛知県丹羽郡大口町豊田、及び御供所)の土豪である堀尾泰晴(吉久、泰時)の長男として生まれた。父は尾張上四郡の守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)の織田信安に仕えて重職にあり、同じく同氏に仕えた山内盛豊(山内一豊の父)とともに連署した文書が残っている。 当時、岩倉織田氏は傍流である織田弾正忠家の織田信長に圧迫されており、吉晴は永禄2年(1559年)、初陣である岩倉城の戦いで一番首を取る功名を立てたものの、岩倉織田氏が滅亡したため父と共に浪人となった。その後、尾張を統一した信長に仕え、間もなくその家臣の木下秀吉(豊臣秀吉)に付属された。 以降は秀吉に従って各地を転戦し、特に永禄10年(1567年)の稲葉山城攻めでは、稲葉山城に通じる裏道の道案内役を務めて織田軍を勝利に導いたといわれている。天正元年(1573年)には、近江国長浜の内に100石を与えられた。その後も武功を挙げ、播磨国姫路において1,500石、後に丹波国黒江において3,500石に加増された。
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織田信長の時代
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天文9年(1540年)、竹阿弥の子、秀吉の異父弟(一説に同父弟)として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。幼少時に秀吉が家を飛び出したため、面識は少ないと思われる。 斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって城の留守居役を務めることが多かった。 天正元年(1573年)、秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となると、城代を務めることもあった。この3年後、1576年には、秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続いた。天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。 天正3年(1575年)、羽柴の名字を与えられる。 秀吉が信長の命令により中国攻めの総司令官となると、山陰道及び但馬国平定の指揮を委ねられる。黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に、信頼の代名詞として「小一郎」(秀長の通称)の名が出るなど、秀吉陣営の最重要の人物に成長する(黒田侯爵家文書)。天正5年(1577年)に秀吉に従い播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦した。竹田城が斎村政広によって落城(竹田城の戦い)すると、城代に任命される(『信長公記』)。 天正6年(1578年)に東播磨地域で別所長治が反旗を翻し、兄と共に制圧に明け暮れることとなり、支配の後退した但馬を再度攻めることとなった。同年、黒井城の戦いに援軍として参戦する。 天正7年(1579年)、別所長治の三木城への補給を断つため丹生山を襲撃する。続いて淡河城を攻めるが、淡河定範の策により撤退した。しかし定範が城に火を放ち、三木城に後退したため補給路を断つことに成功する(三木合戦)。但馬竹田城より丹波北部の天田郡、何鹿郡に攻め入り江田氏の綾部城を攻略し落城に追い込む。 天正8年(1580年)1月に別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する。同年、秀吉軍が但馬国有子山城を落城させ、但馬国平定が完了する。戦後、但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられた。同年5月、有子山城に入る。祐豊の子山名堯煕は羽柴家家臣として召し抱えられ鳥取城攻めに従軍する。それに伴い但馬国人の多くは羽柴家家臣となった。 天正9年(1581年)3月に毛利家から吉川経家が鳥取城に入城する。秀吉は鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始される(鳥取城の戦い)。秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮する。同年10月、経家の切腹により終戦する。 天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、水攻めを行う(備中高松城の戦い)。秀長は鼓山付近に陣を張り参戦する。6月には水攻めの効果により、城主・清水宗治が切腹する。
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