羽鳥輝久
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羽鳥 輝久(はとり てるひさ、1920年5月28日 - 1997年1月28日)は、日本の柔道家(講道館9段)。
注釈
- ^ 中野正三は門下の子供達には必ず背負投を練習させる方針であった。相手の前で背負投のように完全に背を向けるのは難しい事なので中年になってからは中々できないが、若いうちから背負投に慣れておけば、年を取ってからそれより回転の浅い内股や跳腰に転じるのも容易、との信条であったという[4]。
- ^ 結果、釣込腰は羽鳥の終生の得意技となった[1]。
- ^ 石黒敬七は後年機関誌『柔道』の取材に際してこの点に触れ、「日比谷での対満州戦の時、初めは白帯の選手かと思ったが、近くへ寄るとかすかに黒いとこが見えた」と笑いながら語っていた[2]。
- ^ 羽鳥の回想に拠れば、会社の勤務が残業となり遅れて道場に顔を出すと、稽古を終えた醍醐敏郎はわざわざ再び道衣に着替え直し、練習の相手をしてくれたという[4]。
- ^ 全日本東西対抗大会では羽鳥が西軍三将松本安市の大外刈に敗れ、結果的に西軍に優勝を譲ってしまった。
- ^ 羽鳥と同じく9段が授与されたのは、宮川善一、醍醐敏郎、橋元親、湊庄市、高嶋吉次郎、川村禎三、安部一郎、大沢慶己、夏井昇吉の9氏。
出典
- ^ a b c d e 工藤雷介 (1965年12月1日). “七段 羽鳥輝久”. 柔道名鑑、141頁 (柔道名鑑刊行会)
- ^ a b c 講道館編輯部 (1948年2月20日). “各地柔道家座談会”. 機関誌「柔道」(1948年2月号)、6-9頁 (財団法人講道館)
- ^ a b c d e f g 水谷英男 (1997年3月1日). “故羽鳥輝久さんの死を悼む”. 機関誌「柔道」(1997年3月号)、93頁 (財団法人講道館)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 羽鳥輝久 (1967年5月1日). “汗のあと、涙のあと -汗のあと、涙のあと-”. 機関誌「柔道」(1967年5月号)、41-43頁 (財団法人講道館)
- ^ “全日本柔道選手権大会記録(昭和23年~平成20年)”. 激闘の轍 -全日本柔道選手権大会60年の歩み-、147頁 (財団法人講道館・財団法人全日本柔道連盟). (2009年4月29日)
- ^ a b “講道館創立百十周年記念九段昇段者および新九段のことば”. 機関誌「柔道」(1992年6月号)、42頁 (財団法人講道館). (1992年6月1日)
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