習志野
習志野原(陸軍習志野錬兵場)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 05:24 UTC 版)
「習志野」の記事における「習志野原(陸軍習志野錬兵場)」の解説
江戸時代には、小金牧(馬の放牧場など)の一部で、小金原、小金ヶ原(こがねがはら)とか大和田ヶ原(おおわだがはら)などと呼ばれていた。演習場の総面積は、約11,550,000平方メートルで、真っ平らな高台が広がっていたため、一望千里習志野平原(いちぼうせんりならしのへいげん)とも呼ばれた。実際、富士山や筑波山などが地平線によく見えたという。演習場には騎兵連隊や陸軍騎兵学校が隣接し、現在の京成大久保駅周辺や習志野原の入口が近かった薬円台3・4丁目付近は活気があったといわれている。 習志野原が全国に一般によく知られるようになったのは、日露戦争での秋山支隊の活躍によるものだといわれている。なお、全国の連隊では必ず一度は習志野原で演習が実施されていたため、北海道でも老人に習志野という地名を出すと津田沼駅から演習場までの行軍話や野営話などを語る方もいる。 当時の習志野原(陸軍習志野演習場)には入口周辺以外には柵はなく、演習の時 以外は一般人も自由に入る事ができ、阪妻映画などの撮影 や学校の各種実習(測量演習など)などの行事が年間を通じて民間での利用が可能だった。また、演習場では、騎兵連隊の軍旗祭や騎兵学校の馬術大会が開かれ、皇族・軍人・学生(※身分や学は特に問われず、馬術の技術交流が行われた)を始めとする馬術倶楽部や、乗馬愛好家が集まる乗馬のメッカとしても栄えた(習志野原御猟場も参照)。 日本での馬術は、明治以降に大日本帝国陸軍が導入した西洋馬術に起源を持つため、陸軍馬術学校や習志野原、西竹一の話題が語られることがある。また、関連の卒業生(OB)も多かった。 一年に一度、陸軍騎兵学校で開かれていた乗馬大会の際には、皇族(特に三笠宮崇仁親王は熱心で学習院時代から毎年参加していたとされる)をはじめ、外国の大使館付武官、将校、御用商人、一般の人も見る事が出来た為、東京などからも多くの見物客が集まったといわれている。 ちなみに習志野原(陸軍習志野演習場)が輩出した名騎手の1人としてロサンゼルス五輪の乗馬で金メダルを獲得した西竹一(愛称:バロン西)の名前がよく知られているが、現在でも薬円台4丁目には西竹一が下宿していた将校下宿などが残されている。 この陸軍習志野錬兵場は、日本軍が最初に制定した本格的な練兵場(演習場)であり、ここで訓練した兵士たちが基盤となって全国に広がって日本軍を形成し、日本が帝国主義時代を乗り越える原動力となった。
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