荻窪線の建設と向原方面への延伸
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「東京メトロ丸ノ内線」の記事における「荻窪線の建設と向原方面への延伸」の解説
前述の戦災復興院告示第252号「東京復興都市計画高速鉄道網」において、新宿以西は車庫用地(中野車両基地)を確保していた中野富士見町へまっすぐ西進する予定とされ、池袋以西は豊島区向原町に至る路線であった。 都市交通審議会答申第1号に基づいて1957年(昭和32年)6月17日に告示された建設省告示第835号では、都市計画第4号線は「荻窪駅 - 馬橋(杉並区) - 高円寺 - 本町通 - 柏木 - 新宿駅 - 四ツ谷駅 - 永田町 - 霞ケ関 - 数寄屋橋 - 東京駅 - 御茶ノ水 - 本郷三丁目 - 茗荷谷 - 池袋駅 - 板橋区向原町」間27.4 kmの本線と「本町通三丁目 - 本郷通二丁目 - 本郷通三丁目 - 富士見町 - 方南町」間2.7 kmの分岐線とされた。すなわち、国鉄中央線の混雑緩和を目的として、青梅街道に沿って荻窪へ延伸することとなり、また車庫周辺の鉄道空白地帯解消を目的に、中野坂上より方南町へ至る分岐線を設けることとなった。同区間は荻窪線の路線名で1962年までに全通。当初より丸ノ内線・荻窪線で一体的な運行を行っていたが、1972年に荻窪線を丸ノ内線に編入し、現在の路線網を形成した。 銀座線と丸ノ内線は共通の運賃であったが、当初の荻窪線区間は別料金制(特殊運賃制度)としていた。銀座線・丸ノ内線の普通運賃は25円均一であったが、荻窪線の普通運賃は20円均一とし、銀座線・丸ノ内線から荻窪線を相互に乗車した場合には、均一運賃とはならず40円の割高な普通運賃になった(定期乗車券も同様に割高となっていた)。ただし、後に日比谷線が開業するなど路線延長に伴い均一運賃では不合理となることから、1961年(昭和36年)11月1日から営団地下鉄全線にキロ制運賃が導入された。 一方、池袋 - 向原間は長らく手付かずの状態であったが、営団地下鉄は1959年(昭和34年)8月、池袋 - 向原間の建設準備に着手することとした。1961年(昭和36年)11月27日、第4号線池袋 - 向原間の地方鉄道敷設免許を申請し、翌1962年(昭和37年)12月8日に同区間の路線免許を取得した。営団地下鉄は1962年(昭和37年)以降、第4号線池袋 - 向原間の建設工事に着手しようとするが、大蔵省から予算の認可が下りず、建設工事は行われなかった。 1962年(昭和37年)6月8日の都市交通審議会答申第6号、それを踏まえて8月29日に告示された建設省告示第2187号により、第4号線は「荻窪及び方南町の各方面より中野坂上、新宿、赤坂見附、西銀座(現・銀座駅)、春日町、池袋及び向原の各方面を経て成増方面に至る路線」に改訂された。しかし、1968年(昭和43年)4月10日の同答申第10号、それを踏まえて12月28日に告示された建設省告示第3731号により、第4号線の終点は成増から池袋へと短縮され、池袋以西の区間は第8号線(有楽町線)として分離された。
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