藤原秀郷系 長谷川氏とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 藤原秀郷系 長谷川氏の意味・解説 

藤原秀郷系 長谷川氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 05:32 UTC 版)

長谷川氏」の記事における「藤原秀郷系 長谷川氏」の解説

中臣鎌足流れを汲む藤原秀郷を祖とした一族で、尾藤氏流と下河辺氏流の2つがある。近藤安太郎『系図研究基礎知識』によると、藤原秀郷流の主要五氏(他は青木氏、永嶋氏、長沼氏進藤氏)の一つとある。 尾藤氏佐藤氏分家尾藤氏のさらに庶流にあたる。佐藤公清の庶子・公澄の4世孫・知宗(兄・知広が尾藤氏名乗る)の末裔で、22代後の宗茂長谷川氏名乗ったという。 宗茂曾孫長谷川宗仁で、宗仁の子・守知は一時美濃長谷川藩立てている。この系統は守知の息子のとき分割相続により旗本となったが、本家は無嗣断絶し分家存続した。 下河辺氏駿河国山西地域有力者であった小川現在の焼津市)の法永長者の末裔。法永は居士名で俗名長谷川正宣とされ、小鹿範満追われ今川龍王丸氏親)を匿ったことで知られるが、軍記物による記述中心その他の資料乏しい。法永が開基した林叟院寺伝によると、法永は坂本現在の焼津市)の地頭加納義久次男として生まれ長谷川家の嫁婿となったとされる。 『寛政重修諸家譜』などによると、下河辺氏小山氏一族)の祖たる下河辺政義の子小川政平の末裔である。政平の子孫・正宣が大和国長谷川住んだため、長谷川氏名乗ったという。一方、正宣の父とみられる長重にまで連なる清和源氏系譜も『駿河記』巻之十六掲載されている。そちらの系譜では初代長宗大和国長谷川住み三代・貞富が土岐光信責めた功により巴紋を給ったとされる。 正宣の孫・長谷川正長の時、君主今川義元桶狭間の戦い討死したため没落再度徳川家康召抱えられる三方ヶ原の戦い討死した。 正長には正成・宣次・正吉の3子があり、正成系は1750石(のち分割相続により減り1450石)で江戸時代存続した。正成は徳川秀忠の娘の勝姫松平忠直嫁ぐ際に付属して福井藩派遣され、のち忠直配流されその子の光長が越後高田移された後も、続けて江戸高田藩邸に住む勝姫仕え幕府より加増受けている。宣次系は400石で続いた。この家系からのちに火付盗賊改として著名な長谷川宣以平蔵)が出ている。正吉系は4070石(一時500石を加増されたが分割相続により減った)で幕末至ったまた、同族とみられる長久今川義元仕えその子長谷川長綱家康仕え関東代官頭の一人となったほか、長綱兄弟である長盛、長次の家系代官務めるなど旗本として続いた同族とみられる能長は武田信玄召し抱えられたとされているが、その子孫詳細不明である。

※この「藤原秀郷系 長谷川氏」の解説は、「長谷川氏」の解説の一部です。
「藤原秀郷系 長谷川氏」を含む「長谷川氏」の記事については、「長谷川氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「藤原秀郷系 長谷川氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原秀郷系 長谷川氏」の関連用語

1
30% |||||

藤原秀郷系 長谷川氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原秀郷系 長谷川氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの長谷川氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS