藤原道子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 08:51 UTC 版)
藤原道子 ふじわら みちこ | |
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1948年 | |
生年月日 | 1900年5月26日 |
出生地 | 岡山県児島郡 |
没年月日 | 1983年4月26日(82歳没) |
前職 | 看護婦 |
所属政党 | 日本社会党(1946-51)→ 左派社会党(1951-55)→ 日本社会党 |
称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 参院永年在職議員表彰 |
配偶者 | 山崎釼二 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1950年6月4日 - 1974年7月7日 |
選挙区 | 静岡県→ 静岡県第2区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1946年4月10日 - 1948年12月23日 |
藤原 道子(ふじわら みちこ、1900年5月26日 - 1983年4月26日)は、日本の政治家、衆議院議員(2期)、参議院議員(4期)。衆議院議員時代は、山崎 道子(やまざき みちこ)で活動した。
経歴
1900年5月26日、岡山県児島郡(旧宇野町、現玉野市[1])出身。幼少期に生家が没落したため小学校を5年で中退して印刷女工などをしながら後に上京、1915年看護婦試験に合格[1][2]。賀川豊彦の影響を受けてクリスチャンとなる[2]。派出看護婦、巡回産婆も経験し1925年日本労農党の山崎釼二と結婚、夫婦で貧困と戦いながら農民運動に勤しんだ[1]。1946年の総選挙で静岡県(大選挙区の全県1区)から日本社会党より「山崎道子」として立候補して初当選[1]。翌年の総選挙からは静岡2区から立候補して当選。この選挙では夫の山崎も同じ選挙区から無所属で立候補した(落選)。1948年山崎と離婚[1]。1949年の総選挙で落選。以後、「藤原道子」として1950年から参議院全国区に回り[1]、4期連続当選した[2]。売春防止法制定、婦人問題に取り組み、社会党女性議員の代表格として活動、参議院労働委員長、同法務委員長、同決算委員長を務めた[1][2]。
1972年秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章、同年参院永年在職議員表彰[1]。
1983年4月26日死去、82歳[2]。死没日をもって従三位に叙される[3]。
人物
新東京国際空港(現成田国際空港)の一坪共有地の名義人の1人であった[4]。
著書
- ひとすじの道に生きる―藤原道子自伝(集団形星、1972年)
- 藤原道子―ひとすじの道に生きる(日本図書センター、1998年)
参考文献
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
脚注
議会 | ||
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先代 柴谷要 | 参議院決算委員長 1965年 - 1966年 | 次代 鶴園哲夫 |
先代 高橋進太郎 | 参議院法務委員長 1955年 | 次代 成瀬幡治 |
先代 栗山良夫 | 参議院労働委員長 1954年 - 1955年 | 次代 廃止 |
藤原 道子
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長承元年8月17日(1132年9月27日))は、平安時代の女御。承香殿女御と号す。
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