西の切り妻の壁龕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 16:04 UTC 版)
「ウメオ・タウンホール」の記事における「西の切り妻の壁龕」の解説
1892年7月2日、ヴィクトル・リュードベリ(Viktor Rydberg)やゲオルク・フォン・ローゼン(Georg von Rosen)はウメオ市議会に対して彫刻家のオスカル・バーリー(Oscar Berg)を推薦する手紙を書いた。ベルクは正義の女神の像を作ることに興味を持っていた。女神像は西の切り妻の高い所の、現在は壁で囲まれている昔の警察の入り口の上に置かれる予定であり、像を置く場所も用意されていた。しかし1888年の大火の後、市議会は主に経費の問題で再建計画に女神像の設置を含めなかった。1895年にもヘルメル・オスルンド(Helmer Osslund)の兄弟のイーエリ・アスルンド(Eli Aslund)に500クローネで女神像を作らせるという提案がなされたが、経費の問題で却下された。結局、タウンホールの西の切り妻の壁龕には女神像は置かれず、現在も空のままになっている。
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