せいよう‐いがく〔セイヤウ‐〕【西洋医学】
西洋医学
【原文】Western medicine
医師をはじめ、医療にたずさわるプロ(看護師、薬剤師、療法士など)が、薬物、放射線、外科手術を用いて、症状や疾患を治療するシステム。「conventional medicine(伝統医学)」、「mainstream medicine(主流医学)」、「orthodox medicine(正統医学)」、「biomedicine(生物医学)」、「allopathic medicine(アロパシー医学)」とも呼ばれる。
西洋医学
西洋医学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:10 UTC 版)
詳細は「西洋医学」を参照 ヨーロッパ世界においては、「医」の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。ヒポクラテスは学問としての医学を確立し、その後古代ローマのガレノスがアリストテレスなどの自然学を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、古代医学を大成した。 しかしこうした医学書の多くはギリシア語で書かれていたため、ローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではその知識の多くが失われ、断片的なものが残るに過ぎなくなっていた。一方、医学知識はローマの継承国家でありギリシア語圏である東ローマ帝国において保持され、8世紀以降アッバース朝統治下においてヒポクラテスやガレノスをはじめとする医学文献がアラビア語に翻訳された。イスラム世界においてもガレノスは医学の権威とされ、その理論を基礎とするイスラム医学が発達した。11世紀初頭にはイブン・スィーナーが「医学典範」を著わしたように、この時期イスラム世界では百科全書的医学書が多く編まれ、イスラムおよびヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。 これらのアラビア語文献は、12世紀に入るとシチリア王国の首都パレルモやカスティーリャ王国のトレドといった、イスラム文化圏と接するキリスト教都市においてラテン語へと翻訳されるようになった。これによってヒポクラテスや、特にガレノスの著作が西欧に再導入され権威とされたほか、イブン・スィーナーなどの新たな文献も流入した。 ヨーロッパ中世においては、内科学のみが医学とされ、外科学の地位は低かった。外科医療は理容師(理容外科医とも言われた)によって施術され、外科手術や瀉血治療などが行われていた。(内科学、外科学の記事を参照)。16世紀に入ると、それまでの伝統的医学を打ち破る新たな流れが生まれ始めた。解剖学ではアンドレアス・ヴェサリウスが1543年に『ファブリカ(英語版)』(人体の構造)を著わし、ガレノスの誤りを修正した。また、パラケルススは医学への化学の導入を試み医化学を確立した。 18世紀前半には、ヘルマン・ブールハーフェが近代的な臨床の方法論を確立した。またこの時期、ジョバンニ・モルガーニが医学と解剖学を結びつけ、病理解剖の創始者となった。1796年にはエドワード・ジェンナーが種痘を成功させた。 19世紀に入ると、自然科学の発展に伴い医学も急速な発展を遂げた。特に19世紀後半には、ロベルト・コッホとルイ・パスツールによって細菌学が創始され、人工的な弱毒化によるワクチンの生産や多くの病原菌の発見が起き、さらにこれに関連して衛生学も進歩を遂げた。 日本では安土桃山時代にキリスト教の伝来に伴ってわずかに西洋医学の流入があったとされるが、本格的な流入は江戸時代中期の1774年、オランダ語の解剖学書である『ターヘル・アナトミア』が杉田玄白や前野良沢らによって翻訳され、『解体新書』として出版されてからのことである。解体新書の出版は日本の医学界に衝撃を与え、以後医学を中心に蘭学が隆盛するきっかけとなった。
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土屋雅春の『医者のみた福澤諭吉』(中央公論社、中公新書)や桜井邦朋の『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社)によれば、諭吉と西洋医学との関係は深く、以下のような業績が残されている。
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