触底と転覆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:44 UTC 版)
右舷への傾斜はさらに増大して40度にも達し、右舷は上部遊歩甲板外縁まで水没したため、上部遊歩甲板の階段降り口、下部遊歩甲板舷側角窓の破れたガラス窓から海水が多量に浸入し、階段を伝って車両甲板下3等船室へと流れ込み始めたちょうどその頃、22時26分頃であるが、右舷船尾船底に軽い衝撃を受けた。場所は函館港第3防砂堤灯柱より真方位267度8ケーブル(1ケーブルは0.1海里、8ケーブルは1,482m)、陸岸からは1,100mの地点で、直ちに「22時26分座礁せり」と運航指令あて打電し、乗客向け船内放送も行われた。しかしこの地点の水深は海図上12.4mで、喫水4.9mの洞爺丸の座礁には深すぎた。触底による衝撃はその後も数回くり返され、船体の右舷傾斜も増し、船首は風圧でさらに右舷へ圧流され、船体は陸岸と平行になり、左側面から風浪を受ける形となった。 22時39分「 SOS 洞爺丸 函館港外青灯より267度8ケーブルの地点に座礁せり」と打電、この時の船体傾斜は右舷約45度で、この直後に停電し、22時41分「本船500キロサイクルにてSOSよろしく」の通信を最後に連絡は途絶えた。22時43分頃、右側へ横転沈没し、その後の波で船体はさらに傾斜角度を増し、約135度の角度で船体上部を水深約10mの海底に覆没させ、左舷船底ビルジキールを海面上に露出した状態となった。なお、転覆直前に積載車両の横転と左舷錨鎖の切断があった。沈没地点は函館港西防波堤灯台真方位337度、2,500m、陸岸からは700mの地点であった。 この遭難により、旅客1,041名、乗組員73名、その他41名の計1,155名が死亡または行方不明となり、旅客110名、乗組員38名、その他11名の計159名が救助された。浮揚作業は1955年(昭和30年) 8月25日完了したが、損傷甚だしく、復旧を断念し解体された。なお、沈没当時の総トン数は下部遊歩甲板減トン開口閉鎖その他で、4,337.40トンに増加しており、旅客定員も1,231名と大幅に増加していた。
※この「触底と転覆」の解説は、「洞爺丸」の解説の一部です。
「触底と転覆」を含む「洞爺丸」の記事については、「洞爺丸」の概要を参照ください。
- 触底と転覆のページへのリンク