言語活動と現実界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 00:26 UTC 版)
「ジャック・ラカン」の記事における「言語活動と現実界」の解説
たとえば、ある大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実的なこと、もしくは現実界(仏:le Réel)を、言語という象徴界(仏:l'symbolique)を以って描き出そうとしているわけである。証言者Aは事件の決定的瞬間を語り、証言者Bは事件の背景に秘められた事情を語るなど、あらゆる角度から証言がなされる。これらを集めて「事件の全容を解明しよう」という動きが起こったりする。しかし、マスコミ用語としては耳に親しい「事件の全容」なるものは、実際には語り尽くされるのは不可能である。 同じように、どうがんばっても言葉では現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが同時に、人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、メビウスの輪のような立体的な論理として考えればそうでないことがわかる。したがって、人は、より的確な言葉を探したり、より多くの言葉を重ねていくことによって、少しでも現実に近いものを描き出そうと奮闘する。この誠実さは、評価されるかもしれない。しかし、それでも言語活動=現実となる瞬間はない。これが象徴界と現実界が分かたれる一面である。 すなわち、象徴界の参入という「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏:l'impossible)に変える。われわれは一生、それに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし、人が事故的に現実を垣間見たり、現実に触れたりすることがある。その一形態こそが、精神病である。
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