記録達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:11 UTC 版)
「小田急3000形電車 (初代)」の記事における「記録達成」の解説
試験では輪重・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定が行われることとなり、測定機器は国鉄で使用している最新の機器が使用された。風圧分布測定を行うためにSE車の正面10数箇所に1mm径の穴を開け、そこからゴム管でマノメータに接続した。また、車体表面の風圧については屋根に節型ピトー管を設置した。また、架線の状態監視には国鉄の走行試験では初めて工業用テレビが使用された。試験区間は、この当時に保線関係の新技術をテストする「モデル線」として整備されていた藤沢から平塚までの下り線を使用することになった。辻堂駅構内には渡り線の分岐器が存在した が、輪重抜けの危険を考慮して試験前に撤去された。 川崎車輛製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず、1957年9月19日に小田原から自力走行で東海道本線に入線し、翌日の9月20日から試験が開始された。初日は藤沢と平塚の間で日中に試験が行われ、9月21日からは大船と平塚の間で深夜に速度試験が行われた。試験では、最初は95km/hで走行し、その後5km/hずつ速度を高くしていった。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録、さらに9月26日午前3時34分30秒には、当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した。この時には報道関係者も同乗しており、朝日新聞や毎日新聞では9月26日の夕刊で「東京と大阪を結ぶ特急電車計画の見通しがついた」と報道している。 しかし、SE車の設計最高速度は145km/hであり、試験の関係者は「一度は最高速度を出したい」と考えた。このため、翌日の9月27日からは、試験の区間をさらに長い直線区間があり、緩い下り勾配となっている函南と沼津の間に移し、日中に試験が行われた。この日は午前11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された。函南を午後1時50分に発車したSE車は三島を100km/hで通過した後も加速を続け、午後1時57分に145km/hに達した。この瞬間に、9月26日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録が達成された。この時、沼津で停止できなかった場合に備えて次の原 まで線路を空けており、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していた が、いずれも杞憂に終わっている。 なお、9月26日までの走行試験のデータを検討した結果「150km/h程度までは問題ない」という結論に達していた ことから、150km/hまで速度を上げようという意見もあった が、石原の「日本の動力分散化の成否に関わっている問題であり、何か故障が起きたら困る。ここまで行けば十分成功」という考えにより、150km/hでの走行試験は実施されずに終わっている。
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