譲位
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譲位(じょうい、旧字体: 讓位)は、君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為である。
- ^ 「退位」と「譲位」の使い分けは? 天皇陛下めぐる報道
- ^ 産経「譲位」に用語変更 朝日も「生前退位」不使用 他社は表記の混乱も
- ^ a b c 『週刊ダイヤモンド 2016 9/17 第104巻36号』ダイヤモンド社 61ページ
- ^ 『日本書紀』によれば最初の譲位は継体天皇(第26代)から安閑天皇(第27代)であるが、継体天皇は即日に崩御したとされるため、譲位例に数えない場合もある。
- ^ 最初の譲位をした皇極天皇は、譲位後に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という特別な尊号が定められている
- ^ ただし、この時代には天皇の在位中の崩御は禁忌とされていたため、新天皇への譲位・践祚の儀式が終わった後に、旧主(上皇)としての葬儀が行われている(井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房〈歴史科学叢書〉、2012年、168頁。ISBN 9784751744307。 NCID BB11267692。全国書誌番号:22265921。
- ^ 伊藤博文 著 『皇室典範義解』 第十条
- ^ 坂本一登 著 『伊藤博文と明治国家形成―「宮中」の制度化と立憲制の導入』:180頁(文庫版:248頁) 「しかし、伊藤は井上毅の意見を無視し、君位を君主の個人的な意思に委ねないという見地から、天皇の譲位それ自体を明白に否定したのである。」 (大久保啓次郎. “明治国家形成期における井上毅の事績~福澤諭吉の時代から井上毅の時代へ~” (PDF). 2014年7月16日閲覧。)
- ^ 「高輪会議」における『皇室典範再稿(柳原前光内案)』逐条審議、伊藤決裁[第十二条(譲位)、第十五条(太上天皇)] : 皇室典範、皇族令、草案談話要録 (秘書官伊東巳代治、明治20年3月20日) は、小林宏・島善高編著『明治皇室典範〔明治22年〕上 : 日本立法資料全集本巻 16』(1996年5月26日発行、信山社出版)、梧印文庫研究会編著『梧陰文庫影印−明治皇室典範制定本史-』(1986年8月1日発行、國學院大學)、国立国会図書館憲政資料室所蔵「憲政史編纂会収集文書」に所収。
- ^ 島善高「五味均平旧蔵「日本帝国皇室典範」について」『早稲田社會科學研究』第43巻、早稲田大学社会科学部学会、1991年10月、383-405頁、ISSN 0286-1283、NAID 120000792979。
- ^ a b 自発的退位(譲位)の問題については、 [兵藤守男「皇位の継承」『法政理論』第40巻第2号、新潟大学法学会、2007年12月、125-160頁、ISSN 02861577、NAID 110009004834。] が詳しい。日本国憲法下において、譲位を認めるべきであるという意見は、皇室典範制定当初から現在に至るまで、様々な観点や理由から出されている。制定審議の代表例としては、第91回帝国議会貴族院本会議(昭和21年12月16日)での南原繁による質問演説(2016年7月18日閲覧)が挙げられる。
- ^ 明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」 産経ニュース
- ^ 皇室典範 第四條
- ^ 幣原復員庁総裁・国務大臣答弁[貴族院]、金森国務大臣(憲法担当)答弁[衆議院、貴族院]、田中文部大臣答弁[貴族院]。皇室典範案会議録一覧 - 国立国会図書館、日本法令索引。
- ^ 皇室典範に規定する事項に関する試案(金森国務大臣) - 国立公文書館 デジタルアーカイブ
- ^ 林(修) 法制局長官答弁 「これは一言で申しまして、天皇には私なく、すべて公事であるという考え方も一部にあるわけであります。やはり公けの御地位でございますので、それを自発的な御意思でどうこうするということは、やはり非常に考うべきことである。そういうような結論から、皇室典範のときに、退位制は認めなかったのであるということを、当時の金森国務大臣(註.第91回帝国議会衆議院本会議/昭和21年12月5日)はるるとして述べておられます。この問題は、実は皇室典範の審議されたときの帝国議会においては、皇室典範の論議の半分ぐらいを占めております。」 “衆議院会議録情報 第31回国会 内閣委員会 第5号 昭和34年2月6日”. 国立国会図書館「国会会議録検索システム」. 2016年7月16日閲覧。
- ^ a b 象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)
- ^ 以上、石村貞吉『有職故実(上)』1987年。
- ^ 「歴史上の実例」 宮内庁。
- ^ 重祚して斉明天皇として再即位した際は崩御まで在位した。
- ^ 重祚して称徳天皇として再即位した際は崩御まで在位した。
- ^ 実際は廃位。
- ^ 実際は廃位。
- ^ 実際は廃位。
- ^ 実際は廃位。
- ^ 読売新聞朝刊2016年8月9日特別面p12
- ^ 「5月から検討加速 宮内庁幹部ら5人」毎日新聞2016年7月14日 15時00分
- ^ 天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議
- ^ 読売新聞 2016年12月1日
- ^ 天皇退位の特例法が成立 200年ぶりの生前退位へ - BBC 2017年6月9日
- ^ a b c 「天皇」有識者会議 摂政論には無理がある 毎日新聞2016年11月21日 東京朝刊
- ^ a b 陛下はなぜ「摂政」を望まれないのか 過去64例、設置理由「幼少」が最多
- ^ 天皇陛下退位ヒアリング 2回目の議事録公表
- ^ 石川健治「人間七十年」『法学教室』2016年10月号巻頭言参照
- ^ 天皇の生前退位 反対論者に共通するのは政治混乱への危惧
- ^ 「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議最終報告 参考資料」23ページ。
- ^ a b 皇室典範どこまで変えるべきか - 木村草太(首都大学東京教授)
譲位
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「フアン・カルロス1世 (スペイン王)」の記事における「譲位」の解説
フアン・カルロスは「ぜいたく好き」とも見なされており、2007年8月29日には左派政党から公金使途詳細の公表を求められていることを受け、監査人を指名した(#人物も参照)。2011年10月のスペイン政府の調査では、フアン・カルロス1世に対する支持率は50%を割っている。 2012年、非公式で訪れていたボツワナで、アフリカゾウのスポーツハンティング中に腰の骨を折る大怪我を負った。当時、スペインは経済的な苦境にあり(スペイン経済危機)、失業率が20%を超える状況にあり、国王といえど贅沢が許されるような状況になかったこと、また国王自身が世界自然保護基金の名誉総裁の職にあったにもかかわらずレッドリストに掲載されている動物を対象にスポーツハンティングを行ったことについて世界的な批判を受けることとなり、名誉総裁を解任されるに至った(ただし、同国での象狩りは違法ではない)。この事件以降、国民の支持は落ちており、『エル・ムンド』の2013年の世論調査では、約45%が長男のフェリペ王太子に王位を譲るよう求めていた。中道左派系の新聞『エル・パイス』が同年3月に行った世論調査(発表は4月)では、国王の職務遂行ぶりについて回答者の42%が「支持する」、53%が「支持しない」と答えた。2012年12月時点では「支持する」が「支持しない」を21ポイント上回っており、数ヶ月で国王の支持率が急落している。この頃には高齢なことから健康問題も抱えており、2012年11月には人工股関節を埋め込む手術を行っている。 2014年6月2日午前、マリアーノ・ラホイ・ブレイ首相がフアン・カルロスの譲位決定を発表した。ただし、この時点でスペインには国王の譲位に関する法的規定がなく、ラホイ首相は新国王の即位に向けた手続きのため、特別閣議を3日に招集した後、憲法などの改正案を国会に提出した。この発表に対して、一部の左派政党により王制についての国民投票の実施を求める声明が発表された。またSNSにて反王室のデモが呼びかけられ、2日午後8時(現地時間)に反王室派により君主制維持の是非を問う国民投票の実施を訴える大規模なデモが、首都マドリードをはじめ各地で起こされた。そのような情勢の中、6月18日に上院・下院とも圧倒的多数で「国王の退位に関する法律」を可決し、国王も退位の文書に署名した。この法律が発効する19日未明に、自動的にファン・カルロスは退位し、新国王フェリペ6世が即位した。 なお、譲位時にスペインで行われた世論調査によれば、王室の存続を問う国民投票が実施されたら、49%がフェリペ王太子の即位を支持、36%が共和制への移行に投票すると回答している。
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「ジグミ・シンゲ・ワンチュク」の記事における「譲位」の解説
2006年12月9日に王令を出し、14日に第一王男子のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクに譲位した。 現在、国王を退位し、自由に行動できるようになったことで、民衆の生活を自らの目で見るため、国内を巡り歩いているという。
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「アルベール2世 (ベルギー王)」の記事における「譲位」の解説
2013年7月3日、国民向けのテレビ演説において、高齢や健康状態を理由に退位する意向を表明、建国記念日である同月21日に、長男のブラバント公フィリップに譲位した。退位後も「ベルギー国王アルベール2世陛下」の称号と尊称は維持される。 生前に退位を行ったベルギー王は、1951年に退位したレオポルド3世に次いで2人目である。 退位の理由として、年齢や健康問題の他に、ベルギー王室には豪華なヨット購入や相続税逃れ疑惑が浮上し、国民の不満が高まっており、これから逃れるためという説もある。また、2013年6月にはアルベール2世の「隠し子」だと主張する女性がブリュッセルの裁判所で訴訟を起こすという騒動が発生しており、これらの批判をかわすという側面も指摘されている。また、後継者フィリップは国王としての才覚に欠けるとの評価もあり、2014年に予定されている選挙を前に、フィリップが政治経験を積む期間を設けるためであったとの説もある。
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譲位
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宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。 新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
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