讃岐配流と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 20:33 UTC 版)
讃岐国滞在は10ヶ月と短いものであったが、九条家領地の塩飽諸島本島や西念寺(現・香川県仲多度郡まんのう町)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず讃岐国中に布教の足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。法然を偲ぶ法然寺も高松市に所在する。 承元元年(1207年)12月に赦免されて讃岐国から戻った法然が摂津国豊島郡(現箕面市)の勝尾寺に承元4年(1210年)3月21日まで滞在していた記録が残っている。翌年の建暦元年(1211年)には京に入り、吉水にもどった。 建暦2年(1212年)1月25日、京都東山大谷(京都市東山区)で死去した。享年80(満78歳没)。なお、死の直前の1月23日には弟子の源智の願いに応じて、遺言書『一枚起請文』を記している。廟所は現在の知恩院の法然上人御廟の場所に建てられた。 法然の門下には弁長・源智・信空・隆寛・証空・聖覚・湛空・長西・幸西・道弁・親鸞・蓮生(れんせい、熊谷直実)らがいる。また俗人の帰依者・庇護者としては、公家の式子内親王・九条兼実、関東武士の津戸(つのと)三郎為守・大胡(おおご)四郎隆義・大胡太郎実秀父子宇都宮頼綱などがいる。
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