貞明皇后ら皇族の支援
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「水上君の気ちがひの御柱」と噂され、公務中の「狂奔」として問題視されて雲行きの怪しくなった建設運動は、1924年5月から皇室からの支援を受けて一気に進み始める。特に貞明皇后の協力が大きい。筧克彦の「神ながらの道」に傾倒していた皇后は御柱の建設に金200円を援助した。『貞明皇后実録』にいう。 二十七日 午後二時より東京帝国大学教授筧克彦の古神道に関する御進講を聴きたまう。なおこの御進講は本日をもって終了せるにより、明治天皇より御拝領の陶花瓶一個ならびに〔中略〕および金員を克彦に賜いてその労をねぎらわせらる。また克彦その他の有志が皇国精神を作興し、五箇条の御誓文の理想を具現化せんがため、「誓の御柱」と呼ぶ記念碑を建設せんとするを聞かせられ、その資金として金二百円を併せて賜う。 皇后はさらに同年末の関西行啓の際に彦根から多景島を眺望した。後に誓の御柱に奉納された鏡も下賜している。ほか秩父宮雍仁親王以下の皇族たちも金一封を出した。閑院宮載仁親王は誓の御柱に刻む五箇条の御誓文の文言を揮毫した。こうして皇族が御柱建設を後押しするようになってから、建設に対する不満は表向き沈静化した。多景島での工事は1924年11月に起工した。1924年3月時点で出資金4万円・賛同者15万人だったのが、1926年の完成時には約10万円・70万人に急増していた。工事請負業者で収纏金に関わってきた大林組も2万円余りを奉仕し、総工費は12万円になった。 御柱は難工事の末1926年3月9日に完成し、4月1日に対岸の彦根で除幕式を挙行した。除幕式には発案者の水上七郎のほか、恩師の筧克彦、同門の友人で支援者の二荒芳徳らが招かれた。彦根の街は花火大会や競馬大会、奉祝飛行、ニュース映画上映、遊郭の芸妓の出店などで祝った。発案者の水上は完成を見届けてほどなく同年8月7日に死去した。持病の糖尿病の合併症を患っての死であった。
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