起工業学校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:20 UTC 版)
その後、1945年(昭和20年)4月に旧制中学の起工業学校(現:愛知県立起工業高等学校)に入学し、野球部に入部する。高校時代は投手および内野手で、1年生のころには元プロ野球選手の玉腰忠義(一宮市出身)から、その後は早稲田大学で活躍した同郷の先輩・長野からそれぞれ指導を受け、「腕ではなく腰で打つ」打撃フォームを教え込まれた。高校時代には飛距離120 - 130 mの特大本塁打を打ったとされる逸話が残っているほか、犬山高校との試合で大飛球を打ったものの、その打球を当時犬山高の野球部に外野手として所属していた森山周一郎(後に俳優・声優として活躍)に捕球されたことがあった。 起工業3年生の時には長野の指導により、レギュラーに定着して4番打者になった。同年の全国中等学校野球大会愛知県地方大会では急遽リリーフを命じられ登板したが、最終的には敗退した。このころは後に中京商業高校や中京大学で監督を務めた瀧正男の指導を受けていた。当時、瀧は投手だった山内について「速球よりカーブに見るべきものがあった」と評していたが、それ以上に豪快さと器用さを兼ね備えた打撃センスや、大柄な体格・リストの強さに一目置いていた。山内は瀧を恩師として慕い、1950年(昭和25年)春の愛知県大会の直前に肺結核で倒れた瀧の許へ見舞いに訪れたほか、後に毎日から阪神へのトレードが決まった際には、発表・報道される前日(1963年12月19日)に瀧へ報告している。 一方で当時、山内の実家は貧しく、修学旅行で東京へ行った時にはクラスで自分だけが革靴を履いていなかったことから、「高い給料が欲しい」とプロ野球選手を志すようになった。地元・愛知に本拠地を置く中日ドラゴンズに憧れており、「できたら中日のユニフォームを着たい」と考えていた。
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