輸送機型
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1939年(昭和14年)に九六式陸攻二一型を元に燃料・滑油タンクの増設と武装の削減、機内に8~10人分の座席を備える客室設置などの改造を行った機体を、海軍では九六式陸上輸送機として採用、同様の改造は一一型に対しても実施され、後年には落下傘部隊用の特殊輸送機へ改造したものも登場した。 九六式陸上輸送機は民間でも三菱式双発輸送機として大日本航空や各新聞社で輸送や連絡に用いられた。これらの中には世界一周飛行を行ったニッポン号など、日本から各国への長距離飛行に供されたものがあった。 九六式陸上輸送機一一型(L3Y1) 九六式陸上攻撃機一一型、同二一型から改造。発動機は金星四二型ないし四五型を標準とした。 九六式陸上輸送機二一型(L3Y2) 客室内部を落下傘部隊用に改造、胴体下面には装備品の梱包を搭載可能とした機体。 三菱式双発輸送機 武装を全廃、軍用型から一部の艤装を変更して乗客定員4~8人の旅客機、もしくは貨物輸送機としたもの。 長距離飛行を行った三菱式双発輸送機の例としては以下のようなものがあった。 ニッポン号(J-BACI) 詳細は「ニッポン (航空機)」を参照 海軍から払い下げられた二一型を改造の上、1939年(昭和14年)8月~10月に毎日新聞社主催で国産航空機による初の世界一周飛行(総飛行距離5万2886km、実飛行時間194時間)を行った。 そよかぜ号(J-BEOA) 1939年(昭和14年)4月にイランで行われた皇太子パフラヴィーとエジプト王女ファウズィーヤの結婚式に際し、日本からの慶祝使節を乗せた往復親善飛行を同年4月9日~4月15日(往路)、5月15日~5月27日(復路)にかけて行い、イラン滞在中には4月25日にテヘラン上空での空中分列式に参加、またアフガニスタンやイタリア方面への親善や航路開拓を目的とした追加飛行も検討されたがこれらは実現せず終わった。 飛行ルートは往路が東京→台北→広州→バンコク→カルカッタ→カラチ→バスラ→テヘラン、復路がテヘラン→バグダッド→バスラ→カラチ→コルカタ→ラングーン→バンコク→広州→東京であった。 大和号(J-BEOC) 1939年(昭和14年)11月に日泰間航空路開拓飛行を、同年12月から1940年(昭和15年)1月にかけては東京―ローマ往復親善飛行を行った。 龍風号(J-BEOE) 大和号の成功を受け、1940年(昭和15年)2月に日本―タイ航空便試験飛行を行った。 松風号(J-BEOG) 1940年(昭和15年)6月10日、大日本航空の羽田―バンコク間定期航空便一番機となった。
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輸送機型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 14:08 UTC 版)
3M-5 1973年に完成した輸送機型で、KSR-5ロケットを輸送するために製作された。 VM-Tアトラント M-4の機体構造を用いて作成された規格外大型貨物輸送機。背面に大型貨物を搭載する。3M-Tとも。
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輸送機型
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制式採用と同じ1938年(昭和13年)、日本海軍は運用中の一一型の内の2機(7・8号機)を輸送機へ改造した。試験の結果を踏まえ、翌1939年(昭和14年)にはさらに2機の二二型(15・16号機)を改造して試験を行ない、翌年7月に九七式輸送飛行艇として採用した。金星43型装備の7・8号機改造型が「H6K2-L」、金星46型装備の15・16号機改造型が「H6K4-L」である。九七式輸送飛行艇は一一型と二二型から38機が生産され、海軍で20機が運用された。海軍甲事件直前に山本五十六連合艦隊司令長官と司令部をトラック島からラバウルへ送り届けるなど、人員輸送に活躍した。
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