農耕
農耕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:17 UTC 版)
東南アジアは基本的に多くの民族が農耕民族である。ベトナムでは4000年ほど前から農耕を始め、現在のタイ王国の周辺でも紀元前300年頃には農耕が始まっていた。カンボジアでも4世紀頃にもなると、東南アジア有数の稲作地帯となっていた。現在でも東南アジアは世界有数の農業国家群である。
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農耕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:47 UTC 版)
ロングハウスという、数家族が同居する住居(右図)を伝統住居とし、トウモロコシや豆、カボチャ(スクワッシュ)を栽培する農耕を行った。この三種の作物が人のために生まれてきたことを感謝し、「三姉妹、我々を維持する食べ物」とイロコイ族は呼ぶ。彼らの伝統的な作付けは、これらの種を同じ場所に撒き、トウモロコシに豆が絡みつき、その根元をカボチャが覆う、というものである。トウモロコシと豆を共に栽培するのは、労力の節約のほかに土壌から失われる窒素を豆で補う効果もあった。
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農耕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:06 UTC 版)
日本では種子消毒用の特定防除資材の特定農薬として登録される。
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農耕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:59 UTC 版)
アイヌ時代の前段階である10世紀頃の擦文時代、さらにそれ以前の続縄文時代から、既に北海道でも農耕が行われていた。札幌市のサクシュコトニ川流域や、浦幌町十勝太で発見された11世紀の擦文遺跡からはヒエ、アワ、キビなどの雑穀類が出土し、コムギやオオムギも確認されている。さらにオホーツク海沿岸地方で同時期に栄えたオホーツク文化においても、アワ、ヒエ、オオムギの栽培が確認できる。しかし12世紀から始まるアイヌ時代に至って、農耕は縮小する傾向にあった。これは寒冷な気候ゆえに農耕を諦めたというより、本州との交易用の干魚や毛皮調達のため、狩猟、漁撈に重きを置いた結果らしい。さらに17世紀後半のシャクシャインの乱以降、アイヌとの交易を自身の都合よく進めたい松前藩は、アイヌが農業で自活しないよう、鍬や鋤、鎌など鉄製農具の流通を制限していたことも理由として上げられる。 アイヌ語で農業を「トイタ」と呼ぶ。江戸時代後期の和人の紀行文や明治期の学者によるアイヌへの聞き取り調査によれば、農業は女の仕事であり、片手間に行われるようなものだった。まず川の沿岸で樹木や雑草の少ない土地を見定める。その地に所有権を主張する意味で十文字に組んだ木「クイタクペ」を立て、数日のうちに開墾・整地すれば、一年限りで土地の所有権が認められる。開墾は樹木を伐採して焼き払う焼畑ではなく、「トイタイヨッペ」という刃を湾曲させた鎌で草地をなぎ払い、土ごと刈り払って整地する簡単なものである。一戸当たりの耕地面積は、安政年間のトカチ場所(十勝郡)やモンベツ場所(紋別郡)で30坪ほど、気候が温暖な日高地方でも4反ほどだった。 畑にはピヤパ(稗)、メンクㇽ(黍)、ムンチロ(粟)、ソバ、アタネ(カブ)を蒔きつける。時代が下ってからは豆類、さらにジャガイモ、南瓜など新大陸原産の作物も栽培されるようになった。雑穀類にはアイヌ語名がついているが、マメ、ジャガイモ、南瓜はアイヌ語でもそれぞれ「マメ」「イモ、エモ」「カンボチャ」であり、時代が古くないことがわかる。記録によれば、寛政年間に最上徳内が蝦夷地に種芋を持ち込み、虻田郡のアイヌに栽培させたのが北海道におけるジャガイモ栽培の起源だという。一方、千島や樺太のアイヌはジャガイモを「ヌチャトマ」(ロシアのエゾエンゴサク)と呼ぶことから、アイヌ世界におけるジャガイモの伝播には北方(ロシア帝国)と南方(日本)、2つのルートが存在したことが窺える。 一年の耕作の中で豊作を祈る予祝芸能などの儀礼は行われないが、播種の際には種籾を野鳥の卵に浸してから蒔く。これは、野鳥の生命力にあやかって作物の生育を祈る信仰である。また、カッコウや鴨の巣、蛇の抜け殻を保持していれば豊作に恵まれるとの伝承もあった。実際の農作業では畑に畝を切らず、肥料は下肥は言うまでも無く、灰、腐葉土の類まで「大地を穢す」と見なされて施されなかった。除草もそれほど行われなかったため、秋の収穫量は大した物にはならなかった。 ただ、広大な北海道は地方によって気候にも差がある。温暖な道南や日高地方はアイヌ文化圏において最も耕作が盛んな地域であり、幕末期にこの地を旅した松浦武四郎は著書『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』に鵡川の長が3年分の穀物を蓄え、穂別の長が年に35俵の雑穀を収穫し、厚真では一般の家庭でも稗や粟を年に10俵以上収穫していたことを記している。さらに日高地方では畑の隅の糠を捨てる場所(ムルクタヌサ)が神聖な場所とされていたなど、農耕神の存在も窺える。反対に寒冷で農耕に適さず、外界との交流も少ない道北の内陸に住むアイヌは、農業の基本すら知らなかったらしい。明治中期、役人がこの地域のアイヌに農業の普及を図り、「これを土に埋めれば美味しいものが増える」と、馬鈴薯(ジャガイモ)の種芋が詰まった俵を渡し、簡単な説明をして帰った。ところが秋になって再訪してみると、「シャモ(和人)に騙された!」と酷く機嫌が悪い。よく聞き合わせてみると、種芋は俵ごと土に埋めたので全て腐ってしまったという。 秋に至って稔った穀物は、「ピパ」と呼ばれるカワシンジュガイの貝殻から作った道具で一つ一つ穂首刈りにされる。この収穫法は、弥生時代に本州などで石包丁を使って行われた稲の収穫と酷似している。このようにして収穫された穀物は乾燥されたのち「プー」(高床式倉庫)に納められ、必要に応じて「ニス」(臼)で精白、製粉し、サヨ(粥)やシト(団子)、トノト(酒)に加工される。蕪や馬鈴薯、南瓜は汁の具、ラタㇱケㇷ゚(後述)の材料となった。さらに馬鈴薯は冬の寒さを利用し、ポッチェイモという保存食品に加工した。 稲作は行われていなかったが、米は擦文時代から交易で入って来ていた。北海道各地で発見されている青森県五所川原産の須恵器は、米を移出する際の容器として使われた物と考えられている。アイヌ語で米は「真の穀物」を意味する「シアマㇺ」の語で呼ばれ、大変に贅沢な食品とされた。江戸時代前期、徳川光圀が蝦夷地に遣わした快風丸の乗組員は、石狩川流域のアイヌとの交易で生鮭100匹に対し米1斗2升を差し出している。しかし時代が下がるにつれ交易はアイヌ側に不利となった。寛政年間には「蝦夷俵」(えぞだわら)と呼ばれる8升入りの俵1個を得るためにアイヌ側が出す物品は、干し鮭なら100尾、ニシンならば1200尾だった。 時代が下るにつれて、和人の営む漁場を通じて野菜類も順次北海道に伝来した。安政3年(1856年)に北海道の日本海側から樺太、オホーツク海の沿岸地域を跋渉した探検家・松浦武四郎は、道南地方の沿岸は言うに及ばずアバシリ(網走郡)、トコロ(常呂郡)、アッケシ(厚岸郡)など気候寒冷なオホーツク海沿岸の地域に至るまで粟、稗など雑穀、さらに馬鈴薯、大根、インゲンマメ、胡瓜、カボチャ、葱など各種の作物が小規模ながら栽培されているさまを記している。食用植物以外にも、繊維用の麻や、嗜好用の煙草が栽培されることもあった。
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農耕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 21:25 UTC 版)
他の高砂族と同じく粟の栽培が儀礼的にも重視されるが、タロイモの畑地栽培も盛んである。
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農耕
「農耕」の例文・使い方・用例・文例
- 農耕民族
- 農耕地帯
- 広い農耕地が洪水の影響を受けた。
- この地域では、環境を保護をしながら、農耕をしている所もあります。
- おとなしい農耕馬
- 現代の農業(または、農耕)の方法
- 種子または穀粒を殻皮やわらと分ける農耕用機械
- イングランド中部の、広く農耕が行われている州
- 北海に面し、農耕が盛んなイングランド東部のカウンティ
- ビスケー湾に臨むフランス西部の農耕地方
- 雷、雨、および農耕の神
- インド南部の農耕部族
- インド南東部の農耕部族
- 南インドのニルギリ丘陵に住む農耕民族の一員
- ヨーロッパロシアのヴォルガ中部地方に住む農耕民族
- 農耕労働者階級(主にヨーロッパ人)の一つ
- 歌垣という,古代の農耕予祝行事
- 農耕地に良質の土を置き添えること
- 農耕地に置き添えた良質の土
- 乾田馬耕という農耕法
農耕と同じ種類の言葉
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