近世大名
近世大名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 14:35 UTC 版)
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して、山名豊国を従えて最前衛で戦った。関ヶ原本戦後に鳥取城を攻めたが、堅城であったためなかなか陥落せず、西軍方の但馬竹田城主・斎村政広を寝返らせて援軍とし、さらに城下の焼き討ちによってようやく落城させた。この焼き討ち行為は家康の不興を買ったが、政広ひとりが焼き討ちの首謀者とされ、政広は責任を取って自害させられた。これは茲矩が自身の責任を回避すべく讒言したという説がある。また水口岡山城に籠る長束正家を本領安堵を条件に降伏させ、同城を開城させた。 戦後、功績によって因幡高草郡2万4,200石を加増され、3万8,000石の鹿野藩初代藩主となる。江戸幕府下においては、農業開発、銀山開発、用水路開設などの行政面に手腕を振るう一方で、幕府の朱印状を得てシャムと交易を行なうなど、世界に視野を広げた実業家でもあった。特に日本海側の大名が南蛮貿易を行った事例は希少である。 慶長17年(1612年)、死去した。なお、嫡子・政矩の代に石見国津和野4万3,000石に加増転封されている。
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近世大名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:26 UTC 版)
その後、就治の三男・重宗が秀吉の家臣となり但馬国八木城主(のちに丹波国北由良藩主)として存続。重宗の子の吉治の代には江戸幕府の下で北由良藩を治めることとなったが、1628年(寛永5年)に参勤を怠ったことから改易された。後に許された息子の守治や重宗の他の息子の系統は旗本となった。宝永年間に長崎奉行を務めた別所常治(つねはる)は子孫にあたる。
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