運動性能
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艦船の基本的な操縦性能は次の3つの観点から評価されることが多い。
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運動性能
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一式戦は1,000馬力級エンジンを装備した戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最大速度が九七戦とさほど差がなかったことから、旋回性についても九七戦と同等以上の確保が要求されたため、キ44用に開発された蝶型フラップ(空力班としてこれらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは戦闘フラップ(空戦フラップ)としても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったが扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったとされている。鹵獲一式戦をテストした連合軍は旋回性に対して「とくに"戦闘フラップ"を使用したときの旋回能力はきわめて高く、零戦に勝る」と評価している。先述の通り、九七戦との比較についてはのちに戦闘フラップを使用しなくとも、水平方向でなく垂直方向の格闘戦に持ち込むことで圧倒可能と判断されている。一式戦一型の翼面荷重は102kg/m²、二型は117kg/m²、二式戦一型は171kg/m²、Bf109-Eは170kg/m²であり、一式戦の数値は群を抜いている。ちなみに零戦二一型は107.89 kg/m²、F4Fは115kg/m²、スピットファイア Mk. IXeは149 kg/m²であり、各国戦闘機の設計思想がうかがえる。 操縦性・安定性もきわめて高く、機体構造が強化されて以降は危険な飛行特性も無くなり、離着陸時の操縦性・失速特性も良好であった。 連合軍は一式戦の低高度・低速域における運動性・加速性の高さを脅威と見なしており、そのため「格闘戦を避け一撃離脱戦法の徹底」「速力と高高度性能を生かし高速・高高度を維持する」「一式戦が不得意な急降下による離脱」といった対策を心がけるようになっていった。以下は一式戦と対峙した連合軍戦闘機操縦者の発言である。 欧州から来たばかりのパイロットは、01(ゼロワン。一式戦のこと)やゼロ(ビルマ方面の連合軍は一式戦を零戦と誤認しているためこのゼロとは零戦ではなく一式戦のこと)との格闘戦を試みるのは死にに行くのと同然だ、という教訓を頭に叩きこまれた。軽量な日本機は軽快な運動性を持ち、米軍と英軍のどの戦闘機と戦っても内側に回り込んでくる。(後略)ここでの戦闘の戦術はドイツ空軍相手の戦術とまったく別ものだ。日本機は低い高度で非常に運動性が高い。(中略)絶対に低高度での低速格闘戦に誘い込まれてはならない — ビルマ航空戦で一式戦と交戦したイギリス空軍 (前略)格闘戦や旋回戦に入ったら一巻の終わりだ第一に格闘戦を避けねばならない。これに巻き込まれれば日本機は高い運動性を発揮し、君の勝ち目はほとんどない — ニューギニア航空戦で主に一式戦と交戦したアメリカ軍 二型・三型と改良されているものの一式戦の最大速度は連合軍戦闘機と比較すると劣速であり、さらに連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け一撃離脱戦法を徹底、高性能の無線機による複数機の連携で対抗するようになった。大戦中後期には、基礎工業力や補給能力の低さにより必要な機体数や補充操縦者、物資を十分に揃えられなかった日本軍は劣勢となり、一式戦に限らず日本軍機は稼働率が低下していった。 第59戦隊飛行隊長南郷大尉は1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)によるマーカス岬上陸連合軍攻撃任務においてP-38 15機と交戦したが、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記に記しており、600 km/hを超える高速機が一撃離脱戦法に徹した場合は対処が難しいことが判明している。なお、この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の戦闘機単独計30機が出動して16機のP-38と交戦し、運動性を活かして2機を確実撃墜した結果、損失は1機であった。 しかし、操縦者らは運動性を最大限に引き出して大戦中後期の劣勢下でも一定の戦果を挙げていた(#ビルマ航空戦・#インドシナ、マレー、インドネシア方面・#中国航空戦)。特に爆撃機を護衛する戦闘機は護衛対象から離れられないため、実戦では高度の維持や一撃離脱戦法の徹底が難しく、運動性に優れる一式戦を追う間に格闘戦に引きずり込まれたり、攻撃を回避され弾を無駄撃ちし過ぎた事例もある。そういった大戦後期の一式戦の特性を「落とせないが、落とされない」とも評される。一例として1944年7月5日、中国戦線の九江にて飛行第48戦隊の一式戦が第26戦闘飛行隊のP-51Bと交戦し1機を確実撃墜(メイス中尉機)。P-51B撃墜後に一式戦の多くは離脱するも、ただ残った少候出身のベテラン木村増吉中尉機とされる1機は8機ものP-51と交戦、一式戦は巧みな機動で攻撃を回避しP-51全機は全弾を撃ち尽くしてもこれを撃墜することはできなかった。アメリカ軍はこの一式戦操縦者を「九江のエース」と名付け、以降同方面への出撃時は警戒するようになった事例がある(#中国航空戦)。
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