遠山茂樹
遠山茂樹
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マルクス主義歴史学の立場から、長州藩を維新の主体の典型とみなした上で明治維新を天皇制絶対主義の成立とみなす遠山茂樹『明治維新』(1951年、岩波書店)が主流の地位を占めた。 遠山茂樹は以下のように明治維新を説明する。 江戸幕藩体制は、武士階級という「封建権力」が、上層農商層を抱きこんで、耕作農民を抑圧して、天保の改革に失敗したのに対して、雄藩は藩政改革を成功させた。 外圧については、中国が西欧の半植民地となったのに対して日本が一応の政治的独立を維持できたのは、幕末の民衆運動が直接排外運動に赴かず、反封建闘争に集中するなど、日本の階級闘争が発展しており、「日本の民衆の近代化の力」が中国より勝っていたからであった。 尊王論は「反幕府」でも「反封建」でもなく、また国体を強調するものでもなく、世界に普遍的にみられる権力の正統化方式の一種とし、攘夷論は近代的ナショナリズムとは無縁なものとした。 幕府の外交政策は消極的で退嬰的であり、混迷を深めたことから、尊王攘夷派は「攘夷のための尊王」から「尊王反幕のための攘夷」へと変化し、合理的判断を失い、絶対主義成立への見透しを掴めなかった。これに対して長州は英米仏蘭の四国連合艦隊との攘夷戦争で惨敗したことで、下級武士が名分論を超える実践力を獲得し、さらに藩権力を奪取したことで「開明的軍事官僚」「絶対主義的官僚」へと変貌した。英仏は攘夷運動に止めを刺し、日本を半植民地的市場として確定させたが、攘夷派も佐幕派も英仏外交官の指導で絶対主義的改革を意識するようになった。 1866年、幕府が長州征伐に失敗した頃、全国で打ちこわしや一揆が頻発したことで、公議政体論が浮上し、これにより封建権力が崩壊せずに権力を集中強化させる絶対主義運動が生じた。民衆運動はええじゃないかという非政治的なものに逸脱し、「下からの革命」は瓦解した。こうして明治維新は王政復古という矮小な政権移動にとどまり、「天皇奪い合いの宮廷陰謀」となった。 新政府は御誓文で公議世論や仁政を宣伝したが、版籍奉還後の廃藩置県という「第二の王政復古クーデター」を起こし、「啓蒙専制政治」を基調とした。地租改正では税負担が軽減されず、租税の近代化でなく、封建的貢租の継承にとどまったが、徴兵令は封建武士団を粉砕した。学制は、徳川家が「由らしむべし知らしむべからず」と愚民政策をとっていたのに対して、「人民」に変える開明政策であった。福沢諭吉の思想の本質は近代市民革命でなく、啓蒙専制主義にあった。征韓論政変以後は、下野グループの民権論は国権論に従属するものであったが、「下からの自主」の動きが見られた。 三谷博によれば、遠山説では、天皇と幕府の対立が大変動の発端であったことが黙過され、国際環境よりも国内条件が重視され、また、昭和史のイメージを維新史に投影して、ファシズムが維新当初から存在していたように語り、政治運動においては長州を維新の主体として着目する一方で、薩摩、越前藩などの公議政体論を軽視または無視し、外国勢力ではイギリスを排他的に重視するなど、階級闘争史観の影響で一元論や二元対立に傾いた過度に単純化された政治史となった。遠山説は、仮説を述べ、実証研究を促す宣言の書であり、以後継承された研究の潮流では、徳川将軍、旧幕臣の開明派、譜代大名の研究が軽視されたり、政治史と経済史が乖離するといった研究の偏りを生んだ。遠山は、体制権力と下層階級の全面対立を好み、それが見られないことを不満げに説明するが、明治維新の持つ複雑性の説明としては不適当で、支配身分(武士)の消滅は世界史上でも際立つ特徴であるがまだ解明は十分でなく、また世界革命史において維新は著しく犠牲者が少ないこと、また「復古」象徴の利用はフランス革命にも認められることで日本特殊ではないこと、また「復古」の参照先が律令時代でなく神話であったことは復古の名の改革に自由度を与えたこと、などを三谷は指摘した上で、遠山の大振りな思考の展開には感銘を受けたと評した。 遠山以降、田中彰『明治維新政治史研究』(1963年)も標準的な研究となった。長州藩を維新の主体の典型とみなす見方に対して、公武合体派の薩摩藩を重視する毛利敏彦『明治維新政治史序説』(1967年)も登場したが、この時期までの研究は、倒幕派に敗れた東北諸藩、倒幕派でも佐幕派でもない中間的な立場の諸藩の役割が軽視していると後に批判された。
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