郡上藩役人、農民らの吟味とは? わかりやすく解説

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郡上藩役人、農民らの吟味

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「郡上藩役人、農民らの吟味」の解説

評定所詮議懸りによる郡上一揆吟味ではまず幕府役人吟味先行したが、宝暦8年1758年7月吟味開始直後から事件関係した大勢郡上藩役人農民らが江戸出頭命じられ江戸へ向かった郡上から江戸向かった農民総勢309人に及んだとの記録残っている。また江戸潜伏していた駕籠訴人の切立四郎前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日1758年9月27日)に、切立十郎前谷村吉郎治とともに詮議懸り依田次の邸に駆け込み訴え行いそのまま入牢となった評定所詮議懸りによる吟味は、以前駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった郡上藩役人農民、そして石徹白騒動関係者対す吟味は、幕府役人対す判決言い渡し終了した宝暦8年10月29日1758年11月29日以降集中的に進められた。吟味ではまず農民新たに開発していた切添田畑有無について確認した上で検見取正当化し続いて一揆組織首謀者について厳しく追及した拷問を含む厳し取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦8年11月3日1758年12月3日)には、駕籠訴箱訴人を厳しく取り調べた結果一揆勢の指導者判明した藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官介入した件についてどのような関与行ったかと、気良村甚助違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった吟味最中宝暦8年9月26日1758年10月27日)に金森頼錦松平遠江守預かり処分受けた。そして郡上藩士の多く江戸呼び出されている状況続いているとして、宝暦8年10月2日1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持目的とした郡上への出兵命じられた。 宝暦8年1758年11月以降厳し尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立四郎始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立四郎遺体取り捨て扱いとされた。厳し取調べ農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門牢死した。また幕府高官から農民に至るまでの大勢人々連日のように取調べることは、評定所詮議懸りにとっても負担大きかったようで、御詮議懸り勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日1759年1月9日)、評定所体調不良訴えて退席し宝暦8年12月24日1759年1月22日)に死去する。そして厳し尋問が続く中、吟味大詰めとなった宝暦8年1758年12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆指導者から「公儀恐れず」という発言飛び出し評定所詮議懸り更なる厳し取調べ命じることになった

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