郡上藩役人、農民らの吟味
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「郡上一揆」の記事における「郡上藩役人、農民らの吟味」の解説
評定所御詮議懸りによる郡上一揆の吟味ではまず幕府役人の吟味が先行したが、宝暦8年(1758年)7月の吟味開始直後から事件に関係した大勢の郡上藩役人、農民らが江戸に出頭を命じられ、江戸へと向かった。郡上から江戸に向かった農民は総勢309人に及んだとの記録も残っている。また江戸に潜伏していた駕籠訴人の切立村喜四郎、前谷村定次郎は、宝暦8年8月26日(1758年9月27日)に、切立村吉十郎、前谷村吉郎治とともに御詮議懸り依田正次の邸に駆け込み訴えを行い、そのまま入牢となった。 評定所御詮議懸りによる吟味は、以前の駕籠訴吟味の時とはうって変わって農民たちに厳しいものとなった。郡上藩役人、農民、そして石徹白騒動の関係者に対する吟味は、幕府役人に対する判決言い渡しが終了した宝暦8年10月29日(1758年11月29日)以降、集中的に進められた。吟味ではまず農民が新たに開発していた切添田畑の有無について確認した上で検見取を正当化し、続いて一揆の組織や首謀者について厳しく追及した。拷問を含む厳しい取調べによっても農民たちはなかなか口を割らなかったが、宝暦8年11月3日(1758年12月3日)には、駕籠訴、箱訴人を厳しく取り調べた結果、一揆勢の指導者が判明した。 藩主金森頼錦以下、郡上藩役人らの吟味も進められた。金森頼錦への尋問は、郡上藩の年貢徴収法改正に対して幕府役人である美濃代官が介入した件についてどのような関与を行ったかと、気良村甚助の違法な処刑、そして石徹白騒動の処理についてであった。吟味の最中、宝暦8年9月26日(1758年10月27日)に金森頼錦は松平遠江守に預かり処分を受けた。そして郡上藩士の多くが江戸に呼び出されている状況が続いているとして、宝暦8年10月2日(1758年11月2日)には彦根藩に対して治安維持を目的とした郡上への出兵が命じられた。 宝暦8年(1758年)11月以降、厳しい尋問によって病人、そして牢死者が続出することになる。宝暦8年12月末の判決言い渡しまでに、駕籠訴人の切立村喜四郎を始め名が明らかである農民だけで16名が牢死した。また切立村喜四郎の遺体は取り捨て扱いとされた。厳しい取調べは農民ばかりではなく郡上藩役人らにも及び、郡上藩の検見取採用時に活躍した黒崎佐一右衛門も牢死した。また幕府高官から農民に至るまでの大勢の人々を連日のように取調べることは、評定所御詮議懸りにとっても負担が大きかったようで、御詮議懸りの勘定奉行菅沼定秀は宝暦8年12月11日(1759年1月9日)、評定所で体調不良を訴えて退席し、宝暦8年12月24日(1759年1月22日)に死去する。そして厳しい尋問が続く中、吟味が大詰めとなった宝暦8年(1758年)12月には、駕籠訴人、箱訴人、そして一揆の指導者から「公儀を恐れず」という発言が飛び出し、評定所御詮議懸りは更なる厳しい取調べを命じることになった。
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