金方慶
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金 方慶(キム・バンギョン、崇慶元年(1212年)[1] - 大徳4年8月16日(1300年8月30日)[1][2])は、高麗の将軍・都督使。字は本然[1]。諡号は忠烈[1]。本貫は安東金氏(旧安東金氏)[1]。新羅の敬順王の九世の孫にあたる。
注釈
- ^ 『高麗史』金方慶伝 「帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戦艦造船。若依蛮様、則工費多、将不及期、一国憂之。方慶、為東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本国船様督造。帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戦艦造船。若依蛮様、則工費多、将不及期、一国憂之。方慶、為東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本国船様督造」
- ^ 『高麗史』巻28 世家28 忠烈王一の記述では、「(元宗十五年 十二月)庚午(1275年1月26日)、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、献王及公主」
- ^ 『八幡ノ蒙古記』 「同(弘安)四年五月二十一日、蒙古の賊船おそひ来たる、こたひは蒙古大唐高麗以下国々の兵等を、ひきゐて、凡三千餘艘の大船に十七八万の大衆のりつれてそ来ける、其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐、對馬より上りて、見かくる者を打ころしらうせきす、國の民さゝへかねて、妻子を引具し、深山に逃かくる、さるに赤子の泣こゑを聞つけて、捕けり、さりけれはかた時の命をしむ、世のならひ、愛する児をさし殺して、にけ隠れする、あさましき、ありさまなり、此高麗船、捕へきほと、とりて、宗像の沖にこきよす、蒙古大唐の船ともは、對馬にはよらず、壱岐島につく、」(小野尚志「橘守部旧蔵の「八幡ノ蒙古記」(八幡愚童訓)について--付・翻訳--」p.201-202)
- ^ 『日蓮の書簡』 建治元年五月八日付の一谷入道女房あて書状による。
出典
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