鎌倉時代以降とは? わかりやすく解説

鎌倉時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 21:02 UTC 版)

四天王寺」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

康安元年1361年)には金堂地震倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。 天正4年1576年5月には織田信長による大坂本願寺攻めいわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、織田軍に火を付けられて全焼している。その上寺領全て没収されている。 天正12年1584年)には金堂建立された。文禄3年1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われ、単層金堂重層改築され、ほかの堂舎再建された。慶長5年1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔移築され4代目五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年1601年)には秀頼によって千石寄進されている。 しかし、慶長19年1614年大坂冬の陣焼失する。そして、元和9年1623年)に将軍徳川秀忠によって5代目五重塔伽藍再建されその他の堂も江戸幕府援助再建されたが、享和元年1801年)の落雷五重塔金堂始めとして境内の東半分全焼した大坂白銀町町人淡路屋太郎兵衛中心となって文化10年1813年)に6代目五重塔伽藍再建される

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鎌倉時代以降

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新居郡」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

鎌倉時代建長)から戦国時代にかけて新居郡武蔵武士の流れをくむ金子氏金子城)の城下町として繁栄した江戸時代寛永13年1636年)、伊勢神戸5万石の領主であった一柳直盛が、1万8000石の加増を受け、計68000石で新居郡転封となり、西条藩置かれ紀州徳川家と深い関わりもちなが発展した。さらに元禄4年1690年)に別子銅山開坑され、住友家経営しながら関連事業興すことで発展続け住友日本代表する巨大財閥となる礎となったそれ以降新居浜西条二つの町は工業分野中心に発展した明治11年1878年)の郡区町村編制法愛媛県施行されると、行政区画としての新居郡発足して郡役所西条町設置された。 昭和31年加茂村大保木村西条市に、昭和34年角野町新居浜市それぞれ編入され新居郡消滅した

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鎌倉時代以降

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橘氏」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

中央では好古の孫にあたる則隆の子孫が嫡流として続き中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家が残る。しかし、薄家も山科言継の子で薄家に養子入りした諸光(以継)が羽柴秀吉に罰せられて横死し、天正13年1585年)に絶家した。 江戸時代に入ると、元和6年1620年九条家諸大夫であった信濃小路宗増が関白九条幸家命令により醍醐源氏から橘氏改姓し信濃小路家橘氏嫡流とされた。また、そのほかに地下家として、外記方青山家中務省史生)・深井家(賛者)、官方和田家(弁侍)などが橘姓称し中でも深井家は薄家の直系(祖の定基を以継の子とする)を称したまた、江戸時代後期学者である頼山陽は薄家の庶流末裔といわれている。

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鎌倉時代以降

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野木光綱」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

江戸時代長府藩士で明治時代軍人乃木希典野木氏末裔称した。『乃木大将事跡』の乃木氏の系図では畠山政長美濃国土岐氏同国斉藤氏古田兵部毛利秀元などを転々としており中世部分信憑性が低いが、毛利氏仕えた乃木氏が野木氏末裔であること自体疑う余地少ないと考えられる。 また元老大山巌五郎行綱の子孫を称しており、薩摩藩の「本藩人物誌」でも五郎行綱を祖とする大山氏記述登場する本藩人物誌では「佐々木乃白五郎行綱」、大山家伝では「佐々木三河守行綱」で登場し野木氏称した形跡はない。また行綱を佐々木盛綱後胤とする説もある。

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鎌倉時代以降

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大輪田泊」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

平氏政権滅亡後鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府民間貿易認め文治元年1185年)に九州設けられ鎮西奉行は、博多統治して幕府からの御用商船を宋へむけて派遣することとした。清盛による大輪田泊修築工事2度わたっておこなわれたが、中絶余儀なくされていた。 建久7年1196年)、東大寺の僧・重源は、大輪田泊修築事業中絶その後の泊の損壊状況嘆き山陽道南海道西海道諸国および荘園からこの港を経て運ばれる運上米のうち1石あたり1升を徴収し三道の一郡一荘それぞれから船1艘を課し和泉摂津播磨備前備中紀伊伊勢淡路讃岐阿波の計10か国の海岸漂着して破損した船を没収また、山城河内摂津播磨・淡路の5か国の公田荘園竹木伐採し、さらに摂津播磨・淡路民家から人夫徴用して、河尻泊・魚住泊とともにこの泊を修築することを奏請した。重源のこの意見みとめられ上記諸国には太政官符下った重源修築事業乗り出したのは、かれが大勧進として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津利用することが多かったためと思われる。その成果詳細不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経島ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時兵庫津のようすは絵巻物法然上人絵伝』や『一遍聖絵』にも描かれている。 日宋貿易南宋代の終わりまで行われ幕府執権代々つとめた北条氏臨済宗保護したため、宋の禅僧数多く貿易船便乗して来日しモンゴル帝国による南宋攻撃本格化してからも往来継続した流通経済発達国内水運さかんになると、荘園からの年貢減少苦し大寺社ではその維持のために船から関銭徴収することとした。南北朝時代兵庫津には、東大寺領の北関興福寺領の南関設けられていた。 室町時代にはいると、兵庫津足利義満による日明貿易拠点となり、遣明船発着港としてにぎわったほか、朝鮮王国琉球王国の船も来航して再び国際貿易としての地位得た1379年リューベック輸出入関税記録によればハンザ同盟属した北ドイツ有数港湾リューベック港に出入りした船舶年間400艘におよんだが、1444年兵庫湊では大小2,500艘の船が出港入港しており、瀬戸内海沿岸物資流通規模当時すでに巨大なものとなっていたことがうかがわれる江戸時代には西廻り航路における国内航路要津として栄えた安政5年1858年)の日米修好通商条約においては新潟長崎神奈川横浜とともに開港場指定されている。

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鎌倉時代以降

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藤白鈴木氏」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

鈴木重家死後紀伊国残った次男・重次が跡を継いだ。重次は承久の乱朝廷方として参加して正嘉2年1258年8月64歳没し南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇南朝属した明徳3年1392年)には鈴木重義山名義理に従って大内義弘戦い戦死し戦国時代には石山合戦顕如味方し神領失った大坂の陣では鈴木重興徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から6石の寄進受けた1942年昭和17年)に最後当主鈴木重吉病気急死し藤白神社神主家の鈴木氏断絶した

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鎌倉時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 00:09 UTC 版)

八幡神」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

治承4年1180年)、平家追討のため挙兵し源頼朝富士川の戦い前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経感激対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝義経対面し平家追討誓い合ったとされる対面石が置かれている。源頼朝奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号意匠入った錦の御旗用いられた。 源頼朝鎌倉幕府を開くと、八幡神鎌倉迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分領内勧請したそれ以降も、武神として多く武将崇敬した。また室町幕府樹立されると、足利将軍家足利公方ともども源氏復興主旨から、歴代武家政権なかでも最も熱心に八幡信仰押し進めた沖縄県琉球国では、第一尚氏王統尚徳王が、喜界島征服に当って八幡大菩薩神威頼ったことが知られ、「八幡按司」の称号がある。その後継の第二尚氏王統でも、八幡神由来巴紋尚氏家紋として使用された。

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博多」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

福岡博物館所蔵博多古地図1550年頃)によると、博多湾海岸線は、現在の九州大学病院付近から博多区古門戸町付近を結ぶ付近にあり、また、現在の博多川より西側は、住吉小学校付近まで海岸線下がっており、現在の博多区中洲中央区天神渡辺通付近は海であった三笠川現在の御笠川石堂川)は現在の堅粕小学校付近から西に大きく曲がり現在のキャナルシティ付近那珂川注いでいた。この部分当時比恵川と呼ばれていた。なお、 2016年11月8日地下鉄七隈線の延伸工事中陥没事故地点博多駅前2丁目交差点付近)はかつての比恵川跡重なる。 元亀天正年間大友宗麟の命を受けた臼杵鎮続により大規模な治水工事おこなわれ三笠川から博多湾直接そそぐようにされた(現在の石堂川)。また比恵川は博多防衛のために堀を築造し、房州堀とした。房州堀の門を矢倉門とし、直近の出来町に小砦を築く。 このようにこの時代博多津は、概ね古門戸町付近海岸線現在の博多川房州堀と、当時新造された、現在の石堂川囲まれ地域であり、水郷都市の様を呈していた。中世初期までの博多津入江などによりさらに海岸線凹んでおり、現在の中洲川端駅付近東西括れ地形になっていた。そこから北の部分を息の浜(沖の浜)、南側博多浜と呼んでいた。 鎌倉時代元寇の後、沖の浜現在の蔵本町付近)から現在の古門戸町付近までの海岸線沿いに防塁築かれている。このころ博多津海沿いには承天寺聖福寺櫛田神社萬行寺鎮座しており、文字通り博多中心部であった前述石堂川築造により房州堀(旧比恵川)の流量著しく下がり、旧比恵河口中州形成され、これが現在の中洲地区にあたる。 安土桃山時代から江戸時代にかけては、豊臣秀吉太閤町割や、黒田氏により築造が行われた。中央の東西凹んだ入江狭められとともに東西連結されて、博多大水道と呼ばれる運河作られた。 近代では中洲ほか周辺地形前述海退現象海水準変動)により形成もしくは埋め立てにより広がり房州堀はほぼ消失し一部暗渠化され、現在の那珂川博多川御笠川石堂川)を境とするほぼ連続した地形形成され、さらに北側海岸線上がり人工埠頭形成され現在の地形至っている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:59 UTC 版)

藤原氏」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

五摂家藤原氏嫡流略系図近衛家近衛基実2代略) 近衛兼経 → [近衛家] [藤原北家藤原忠通 鷹司兼平 → [鷹司家] [九条家九条兼実2代略) 九条教実 → [九条家一条実経 → [一条家二条良実 → [二条家鎌倉時代に入ると、藤原氏嫡流近衛家(後に首相となる近衛文麿氏族)・鷹司家松平信平氏族)・九条家二条家一条家五摂家分立した。五摂家交代摂政関白を(豊臣氏除き独占し続け政治中枢とは隔絶されるが公家社会では幕末に至るまで一定の影響力持ち続ける。 五摂家以外にも、三条家西園寺家(後に首相となる西園寺公望氏族)・閑院家花山院家御子左家四条家勧修寺家日野家浄土真宗宗祖親鸞足利義政の妻・日野富子氏族)・中御門家など数多く支流庶流がある。 また公家の他に、北家藤原道兼の子孫の宇都宮氏流や、同じく北家藤原長家の子孫の那須氏流、同じく北家藤原房前の子藤原魚名の子孫の藤原利仁藤原秀郷からは多く武家輩出した

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神峯山寺」の記事における「鎌倉時代以降」の解説

神峯山寺本尊毘沙門天武将による信仰厚く受けていたのは、鎌倉時代末期からであったとされている。楠木正成奉納したと伝わる殿中刀は現在も神峯山寺本堂所蔵されており、室町幕府三代将軍足利義満摂津守護代三好長慶仕えていた松永久秀や、豊臣秀頼生母淀殿らによる寄進があった。これらは毘沙門天戦いの神として崇拝されたことに起因するようだが、経緯定かではない

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