鎌倉時代以降
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康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。 天正4年(1576年)5月には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、織田軍に火を付けられて全焼している。その上、寺領を全て没収されている。 天正12年(1584年)には金堂が建立された。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われ、単層の金堂が重層に改築され、ほかの堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年(1601年)には秀頼によって千石が寄進されている。 しかし、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失する。そして、元和9年(1623年)に将軍徳川秀忠によって5代目五重塔や伽藍が再建され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されたが、享和元年(1801年)の落雷で五重塔や金堂を始めとして境内の東半分が全焼した。 大坂白銀町の町人淡路屋太郎兵衛が中心となって文化10年(1813年)に6代目五重塔や伽藍が再建される。
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鎌倉時代以降
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鎌倉時代(建長)から戦国時代にかけて新居郡は武蔵武士の流れをくむ金子氏(金子城)の城下町として繁栄した。 江戸時代の寛永13年(1636年)、伊勢神戸5万石の領主であった一柳直盛が、1万8000石の加増を受け、計6万8000石で新居郡に転封となり、西条藩が置かれて紀州徳川家と深い関わりをもちながら発展した。さらに元禄4年(1690年)に別子銅山が開坑され、住友家が経営をしながら関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。 それ以降、新居浜と西条の二つの町は工業分野を中心に発展した。 明治11年(1878年)の郡区町村編制法が愛媛県で施行されると、行政区画としての新居郡が発足して郡役所が西条町に設置された。 昭和31年に加茂村・大保木村が西条市に、昭和34年に角野町が新居浜市にそれぞれ編入され、新居郡は消滅した。
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鎌倉時代以降
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中央では好古の孫にあたる則隆の子孫が嫡流として続き、中世にはこの系統から橘氏唯一の堂上家で、代々橘氏長者となった薄家が残る。しかし、薄家も山科言継の子で薄家に養子入りした諸光(以継)が羽柴秀吉に罰せられて横死し、天正13年(1585年)に絶家した。 江戸時代に入ると、元和6年(1620年)九条家の諸大夫であった信濃小路宗増が関白・九条幸家の命令により醍醐源氏から橘氏に改姓し、信濃小路家が橘氏の嫡流とされた。また、そのほかに地下家として、外記方の青山家(中務省史生)・深井家(賛者)、官方の和田家(弁侍)などが橘姓を称し、中でも深井家は薄家の直系(祖の定基を以継の子とする)を称した。また、江戸時代後期の学者である頼山陽は薄家の庶流の末裔といわれている。
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鎌倉時代以降
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江戸時代の長府藩士で明治時代の軍人・乃木希典は野木氏の末裔を称した。『乃木大将事跡』の乃木氏の系図では畠山政長、美濃国土岐氏、同国斉藤氏、古田兵部、毛利秀元などを転々としており中世部分は信憑性が低いが、毛利氏に仕えた乃木氏が野木氏の末裔であること自体は疑う余地は少ないと考えられる。 また元老大山巌は五郎行綱の子孫を称しており、薩摩藩の「本藩人物誌」でも五郎行綱を祖とする大山氏の記述が登場するが本藩人物誌では「佐々木乃白五郎行綱」、大山家伝では「佐々木三河守行綱」で登場し、野木氏を称した形跡はない。また行綱を佐々木盛綱の後胤とする説もある。
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鎌倉時代以降
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平氏政権滅亡後の鎌倉時代には日宋間の正式な国交はなかったが、鎌倉幕府は民間貿易を認め、文治元年(1185年)に九州に設けられた鎮西奉行は、博多を統治して幕府からの御用商船を宋へむけて派遣することとした。清盛による大輪田泊の修築工事も2度にわたっておこなわれたが、中絶を余儀なくされていた。 建久7年(1196年)、東大寺の僧・重源は、大輪田泊の修築事業の中絶とその後の泊の損壊状況を嘆き、山陽道・南海道・西海道の諸国および荘園からこの港を経て運ばれる運上米のうち1石あたり1升を徴収し、三道の一郡一荘それぞれから船1艘を課し、和泉・摂津・播磨・備前・備中・紀伊・伊勢・淡路・讃岐・阿波の計10か国の海岸に漂着して破損した船を没収、また、山城・河内・摂津・播磨・淡路の5か国の公田・荘園の竹木を伐採し、さらに摂津・播磨・淡路の民家から人夫を徴用して、河尻泊・魚住泊とともにこの泊を修築することを奏請した。重源のこの意見はみとめられて上記諸国には太政官符が下った。 重源が修築事業に乗り出したのは、かれが大勧進として尽力していた東大寺復興事業にこれら港津を利用することが多かったためと思われる。その成果の詳細は不明であるが、鎌倉時代には国内第一の港として「兵庫津(ひょうごのつ)」「兵庫島」あるいは「兵庫経島(ひょうごきょうじま)」と呼ばれるようになり、当時の兵庫津のようすは絵巻物『法然上人絵伝』や『一遍聖絵』にも描かれている。 日宋貿易は南宋代の終わりまで行われ、幕府の執権を代々つとめた北条氏も臨済宗を保護したため、宋の禅僧も数多く貿易船に便乗して来日し、モンゴル帝国による南宋攻撃が本格化してからも往来は継続した。流通経済の発達で国内の水運がさかんになると、荘園からの年貢減少に苦しむ大寺社ではその維持のために船から関銭を徴収することとした。南北朝時代の兵庫津には、東大寺領の北関と興福寺領の南関が設けられていた。 室町時代にはいると、兵庫津は足利義満による日明貿易の拠点となり、遣明船の発着港としてにぎわったほか、朝鮮王国や琉球王国の船も来航して再び国際貿易港としての地位を得た。1379年のリューベック『輸出入関税記録』によれば、ハンザ同盟に属した北ドイツ有数の港湾リューベック港に出入りした船舶は年間約400艘におよんだが、1444年の兵庫湊では大小2,500艘の船が出港・入港しており、瀬戸内海沿岸の物資の流通規模が当時すでに巨大なものとなっていたことがうかがわれる。 江戸時代には西廻り航路における国内航路の要津として栄えた。安政5年(1858年)の日米修好通商条約においては、新潟、長崎、神奈川(横浜)とともに開港場に指定されている。
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鎌倉時代以降
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鈴木重家の死後、紀伊国に残った次男・重次が跡を継いだ。重次は承久の乱で朝廷方として参加して正嘉2年(1258年)8月に64歳で没し、南北朝時代には鈴木重恒が後醍醐天皇の南朝に属した。 明徳3年(1392年)には鈴木重義が山名義理に従って大内義弘と戦い戦死し、戦国時代には石山合戦で顕如に味方し神領を失った。大坂の陣では鈴木重興が徳川方として参戦して浅野氏から諸役免除を賜わり、後に浅野幸長から6石の寄進を受けた。 1942年(昭和17年)に最後の当主・鈴木重吉が病気で急死し、藤白神社神主家の鈴木氏は断絶した。
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鎌倉時代以降
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治承4年(1180年)、平家追討のため挙兵した源頼朝が富士川の戦いを前に現在の静岡県黄瀬川八幡付近に本営を造営した際、奥州からはるばる馳せ参じた源義経と感激の対面を果たす。静岡県駿東郡清水町にある黄瀬川八幡神社には、頼朝と義経が対面し平家追討を誓い合ったとされる対面石が置かれている。源頼朝の奥州合戦では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号の意匠が入った錦の御旗が用いられた。 源頼朝が鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の守護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。また室町幕府が樹立されると、足利将軍家は足利公方家ともども源氏復興の主旨から、歴代の武家政権のなかでも最も熱心に八幡信仰を押し進めた。 沖縄県の琉球国では、第一尚氏王統の尚徳王が、喜界島の征服に当って八幡大菩薩の神威に頼ったことが知られ、「八幡按司」の称号がある。その後継の第二尚氏王統でも、八幡神由来の巴紋が尚氏の家紋として使用された。
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鎌倉時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 17:03 UTC 版)
福岡博物館所蔵の博多古地図(1550年頃)によると、博多湾の海岸線は、現在の九州大学病院付近から博多区古門戸町付近を結ぶ付近にあり、また、現在の博多川より西側は、住吉小学校付近まで海岸線が下がっており、現在の博多区中洲、中央区天神や渡辺通付近は海であった。三笠川(現在の御笠川・石堂川)は現在の堅粕小学校付近から西に大きく曲がり、現在のキャナルシティ付近で那珂川に注いでいた。この部分は当時は比恵川と呼ばれていた。なお、 2016年11月8日の地下鉄七隈線の延伸工事中の陥没事故地点(博多駅前2丁目交差点付近)はかつての比恵川跡と重なる。 元亀・天正年間に大友宗麟の命を受けた臼杵鎮続により大規模な治水工事がおこなわれ、三笠川から博多湾に直接そそぐようにされた(現在の石堂川)。また比恵川は博多防衛のために堀を築造し、房州堀とした。房州堀の門を矢倉門とし、直近の出来町に小砦を築く。 このようにこの時代の博多津は、概ね、古門戸町付近の海岸線、現在の博多川、房州堀と、当時新造された、現在の石堂川に囲まれた地域であり、水郷都市の様を呈していた。中世初期までの博多津は入江などによりさらに海岸線が凹んでおり、現在の中洲川端駅付近で東西に括れた地形になっていた。そこから北の部分を息の浜(沖の浜)、南側を博多浜と呼んでいた。 鎌倉時代の元寇の後、沖の浜(現在の蔵本町付近)から現在の古門戸町付近までの海岸線沿いに防塁が築かれている。このころ、博多津の海沿いには承天寺、聖福寺、櫛田神社、萬行寺が鎮座しており、文字通り博多の中心部であった。 前述の石堂川の築造により房州堀(旧比恵川)の流量は著しく下がり、旧比恵川河口に中州が形成され、これが現在の中洲地区にあたる。 安土桃山時代から江戸時代にかけては、豊臣秀吉の太閤町割や、黒田氏により築造が行われた。中央の東西に凹んだ入江は狭められるとともに東西が連結されて、博多大水道と呼ばれる小運河が作られた。 近代では中洲ほか周辺地形が前述の海退現象(海水準変動)により形成もしくは埋め立てにより広がり、房州堀はほぼ消失し一部は暗渠化され、現在の那珂川、博多川、御笠川(石堂川)を境とするほぼ連続した地形が形成され、さらに北側に海岸線が上がり、人工埠頭が形成されて現在の地形に至っている。
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鎌倉時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:59 UTC 版)
五摂家(藤原氏嫡流)略系図 [近衛家] 近衛基実 (2代略) 近衛兼経 → [近衛家] [藤原北家] 藤原忠通 鷹司兼平 → [鷹司家] [九条家] 九条兼実 (2代略) 九条教実 → [九条家] 一条実経 → [一条家] 二条良実 → [二条家] 鎌倉時代に入ると、藤原氏の嫡流は近衛家(後に首相となる近衛文麿の氏族)・鷹司家(松平信平の氏族)・九条家・二条家・一条家の五摂家に分立した。五摂家が交代で摂政・関白を(豊臣氏を除き)独占し続け、政治の中枢とは隔絶されるが公家社会では幕末に至るまで一定の影響力を持ち続ける。 五摂家以外にも、三条家・西園寺家(後に首相となる西園寺公望の氏族)・閑院家・花山院家・御子左家・四条家・勧修寺家・日野家(浄土真宗の宗祖・親鸞、足利義政の妻・日野富子の氏族)・中御門家など数多くの支流・庶流がある。 また公家の他に、北家の藤原道兼の子孫の宇都宮氏流や、同じく北家の藤原長家の子孫の那須氏流、同じく北家の藤原房前の子・藤原魚名の子孫の藤原利仁、藤原秀郷からは多くの武家も輩出した。
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鎌倉時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 09:41 UTC 版)
神峯山寺本尊・毘沙門天が武将による信仰を厚く受けていたのは、鎌倉時代末期からであったとされている。楠木正成が奉納したと伝わる殿中刀は現在も神峯山寺本堂に所蔵されており、室町幕府三代将軍足利義満、摂津守護代三好長慶に仕えていた松永久秀や、豊臣秀頼の生母淀殿らによる寄進があった。これらは毘沙門天が戦いの神として崇拝されたことに起因するようだが、経緯は定かではない。
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