長井頼重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/04 07:22 UTC 版)
長井 頼重(ながい よりしげ、生没年未詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての人物、鎌倉幕府の御家人。
注釈
- ^ 元服はおおよそ10代前半もしくはこの前後で行われることが多かったことから、生誕年も(幅は広いが)1230年代~1250年代の間であったと推定することができる。
- ^ a b 長井氏泰重流の歴代当主については生没年等を伝える史料が残っていないためその元服時期を推定することは難しいが、『常楽記』元徳3年(1331年)2月12日条に「長井縫殿頭他界。貞重六十」と長井貞重が60歳で死去したことが窺え、その元服時期を1281年~1286年と推定することができ、貞重がその当時の得宗家当主・北条貞時と烏帽子親子関係を結んだと考えることができる。よって、その名前からして泰重が泰時、頼重が時頼、貞重が貞時、高広が高時、といったように、嫡流(泰秀流)と同様に北条氏得宗家当主と烏帽子親子関係を結んでいたことが言える。 長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[4]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられる[5](→北条氏#北条氏による一字付与について)。
- ^ 海津一朗の論文[14]では、亀山上皇の院宣によって山城国大隅荘・薪荘が関東一円地と変換されて「関東御領」となったのに伴い、六波羅の責任者である頼重・職直の両者が流罪になったとの見解が述べられている[15]。
- ^ 史料では『尊卑分脈』にも頼重の息子として運雅の記載がある[22]。
出典
- ^ 安田 1990, p. 431, 下山忍「長井貞重」
- ^ a b 「長井貞重」 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ a b 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年、 p.15系図・16-17。
- ^ 「長井氏」 『世界大百科事典』(第2版) 。
- ^ 山野龍太郎 「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志編 『日本中世政治文化論の射程』 思文閣出版、2012年、163頁。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- ^ 「尊卑文脈」本大江系図
- ^ 安田 1990, p. 433, 下山忍「長井泰重」
- ^ 西ヶ谷 1998, p. 213.
- ^ 安田 1990, pp. 432-433.
- ^ a b 西ヶ谷 1998, p. 215
- ^ 服部 1995, p.417系図T-1・p.418.
- ^ 『一代要記』弘安五年十二月十四日条(国文学研究資料館データベース)「因幡守頼重配流越後国」。「真言宗全書」『野沢血脈集』「因幡前司大江頼重」。「真言宗全書」『血脈類集記』(裏書)「覚雅法印 運雅僧都因幡守子」。『尊卑分脈』
- ^ 『勘仲記』弘安五年十二月六日条、『一代要記』弘安五年十二月十四日条(国文学国文学館データベース)。
- ^ 海津一朗 「鎌倉後期の国家権力と悪党 -弘安の大隅・薪荘境界争論をめぐって-」、悪党研究会編 『悪党の中世』 岩田書院、1998年。
- ^ a b c d 服部英雄「新刊紹介 悪党研究会編『悪党の中世』」『史学雑誌』第107巻第11号、1998年12月、 123-126頁。
- ^ a b 佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』 越後・備後の項。
- ^ a b 服部 1995, p.417 系図T-1
- ^ 「尊卑文脈」本大江系図
- ^ a b 服部 1995, p. 418。いずれも『常楽記』にある貞重・運雅の没年およびその当時の年齢(享年)から逆算したもの。
- ^ 「醍醐寺過去帳」『醍醐寺史料』
- ^ 安田 1990, p. 433, 下山忍「長井宗衡」.
- ^ 服部 1995, p. 418.
- ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「六条八幡宮別當補任次第」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.398-399
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