長尾氏
長尾氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 10:21 UTC 版)
長尾為景 謙信の父。越後国の守護代を代々務める長尾一族の総領。暴慢な先君・上杉房能を弑逆して末家の上杉定実を後継に立て、関東管領・上杉顕定との戦い(永正の乱)に勝利して政治的実権を握る。政軍ともに辣腕を振るい、越後の事実上の支配者として君臨した。 謙信の生母である側室の袈裟御前の懐妊があまりに早かったことから、謙信が誕生した後も実子か否かの疑念を抱き、そのため謙信に愛情を持たずに常に微妙な距離を置いて接した。 領内で起こった一向一揆の基を断つため越中に侵攻して一時的に一部を占領するものの、一向衆と地元の豪族の反乱に遭って戦死する。為景が一向衆との戦いで戦死したという説は、その父である能景の死因と混同されたものとして現在の研究では否定されている。 長尾晴景 為景の嫡男。謙信の実兄だが、謙信が為景の晩年の子なので親子ほどの歳の差がある。為景の死後、跡を継いで守護代となるものの父に似ず器量は凡庸であり、国の乱れを抑えることができずに越後を分裂させてしまった。 その日常は懶惰を極め、周囲の諫言も聞かずに淫事に耽るばかりでたちまち国中の信望を失った。謙信もその柔弱な生活ぶりを諌めるが弟の言葉にも耳をかさないどころか、その才能への嫉妬も混じって激しく憎むようになり、未遂に終わったものの暗殺者を仕向けたりもした。危うく難を逃れた謙信は宇佐美定行の説得によって兄を討つことを決断し、軍を起こして晴景を破った。 謙信との戦いに敗れた後は上杉定実の仲裁によって隠居することとなり、長尾家の家督と守護代の座を謙信に譲った。莫大な隠居料を貰った後は政務を執る煩わしさも喧しい諫言を受けることもない生活に満足し、数年間の気楽な隠居生活を過ごした後に病死する。 長尾俊景 越後中部三条を領する三条長尾家の当主。為景の死後、晴景が跡を継いだことに不満を示し、自らが守護代となるべく反乱を起こした。越後きっての戦上手として知られ、亡き為景の重臣であった昭田常陸介を寝返らせ、一時は越後の半分を支配下に置いた。 やがて謙信が宇佐美定行の支援の下で決起するやこれを年少と侮って返り討ちにするべく出陣するが、慢心が油断を招き謙信の機略に陥れられ戦死する(栃尾城の戦い)。この劇的な勝利によって謙信は一挙に名を挙げ、早熟の天才として知られることとなる。 長尾房景 越後南部上田庄を領する上田長尾家の当主。為景の弟で、謙信にとっては叔父に当たる。高い軍事指揮能力を持ち、数多の戦場で的確な軍事指揮を取って戦功を上げ、兄の政権を支えた。 為景の死後はなりゆきで晴景に仕える。晴景と謙信の対立の際には息子の政景を後継者にすることを条件に晴景に味方するものの、中途で晴景の惰弱柔媚な人物に呆れ果て、戦を放り出して袂を分かった。政景が後継者になる約束があったことから晴景が破れた後もなかなか謙信に恭順しようとしなかったが、謙信が政景と姉のお綾の婚姻を申し出たことにより、息子とともに謙信の幕下に入った。 謙信による越後の統一直後、老齢から病を得て病没する。 長尾政景 房景の子。謙信にとって従兄に当たり、姉を娶ったため姉婿でもある。父親譲りの軍才を大いに振るい、若年の頃より幾多の戦場で武名を轟かせた。 為景の死後は、父とともに晴景に仕える。晴景が謙信に敗れた後は上述の経緯から恭順の姿勢を示さなかったが、お綾と縁づいたことにより謙信の幕下に入る。その有能さから謙信の強い信頼を得、謙信が国外に出る際には留守居役として越後を上手く取りまとめた。己の武勇知略に強い自負を持つことから謙信に取って代わろうという野心が心にもたげることもあったものの、信任を違えることなく真摯に補佐役を務め続けた。その子は「喜平二景勝」の名を賜り、後に子のない謙信の養子となって謙信の後継者となる。
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