開学
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潘周楨と彼の支持者は、ダナンなど中部ベトナムを中心とする各地で、実学教育を行う私立学校の設立を促した:193。東京義塾はこれに呼応して北部ベトナムで1907年3月に設立された同種の「学会」の一つである:323:193。東京義塾は有志の寄付を募って行われた慈善事業であって、近代の精神を学びたい者なら誰にでも、無料で授業を受けさせた。 東京義塾の校名に入っている「義塾」は慶應義塾にならって採用した。その前にある「東京」はベトナム語でドンキン(Đông Kinh)と読み:104、ハノイの別名又は旧名である。14世紀末に当時の陳朝が一時的に首都をハノイからタインホアに移したことがあり、その際、旧都ハノイを東京、新都タインホアを西京と呼んだ:104-106。東京義塾の設立者らは、日本の首都、東京を連想させる校名により日本の近代化に続こうという思いを示すため、わざわざハノイの旧名を「新学」を学ぶ校名に用いた:104。 東京義塾は運営部、教育部、出版部、広報部など、部門別に別れていた。運営は梁文干(ベトナム語版)、阮瓘(英語版)、阮文永(ベトナム語版)、陶元普(ベトナム語版)、范俊風(Phạm Tuấn Phong)、黎岱(ベトナム語版)らが担った。ハノイ59番通りにあった教育部で教えた教育者としては範維遜(ベトナム語版)、ズオン・バー・チャック(ベトナム語版)などがいる。 東京義塾は書字文化の改革に取り組んだ。東京義塾はベトナム語を書き表す書字体系として国語(クオックグー)を推奨し、教科書や新聞を従来の漢文(古典中国語)に代えて、クオックグーで出版した。クオックグーは新しい思想や文物の表現媒体としての役割を担った。もっとも、東京義塾では漢字の使用が単に忌避されたわけではなく、近代の新思想を学ぶため、「自由」「民主主義」「権利」といった新しい概念を表す言葉として和製漢語が積極的に学ばれた。 東京義塾が教授した教科としては、漢文、フランス語、国語(クオックグー)を中心に、地理、歴史、算術、図画、科学、体育があった:104-105。歴史ではフランス革命やジョージ・ワシントンの生い立ちなどが学習された。教材は手作りで、謄写版刷りの潘佩珠の著作(漢文)も使用された。潘周楨は何度も講義を行い、科挙及びそれを中心とした学術体系が時代遅れになったことを強調した。なお、西洋の新思想は日本語から直接翻訳されたわけではなく、梁啓超の日本語から近代中国語への翻訳からベトナム語へ重訳された。人名も漢字にいったん転写された後、ベトナムでの読みに変換されたため、ルソー、シャルル・ド・モンテスキュー、ヴォルテール、スチュアート・ミル、ハーバート・スペンサーがそれぞれ、Lư Thoa, Mạnh Đức Tư Cưu, Phúc Lộc Đạt Nhĩ, Ti Thoát Mân, Ti Tân Tất になった。
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