開発テスト
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1969年(昭和44年)2月10日に袋井テストコースがコース開きとなり、翌々日の最初の本格的な走行中に福澤の死亡事故が発生した。ここは10月の日本グランプリに向けて、新型の5リッタートヨタ・7の開発拠点となる予定だった。当日、福澤は5リッタートヨタ・7用に試作したロングテールのクローズドボディを旧型の3リッタートヨタ・7のシャシに装着して先行開発テストを行っていた(5リッタートヨタ・7は当初クローズドボディで設計されたが、試走の結果からオープンに改装された)。 直線区間から1コーナーに向かう途中、福澤のマシンは突然コースアウトしてコース脇の芝生に建てられた標識の鉄柱に激突、さらに土手に激突して炎上した。福澤の同僚(トヨタワークスのキャプテン)だった細谷四方洋は事故後に腕に火傷を負いながら助け出そうとしたが、シートベルトが外れず救助できなかった。結局、救助できたのは消火作業後だったが、福澤はすでに死亡していた。死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷で、標識に激突した時点で即死だったとみられる。 目撃証言では直線部分で突然クルマの挙動が不安定になり、コース右側の標識に激突したという。横風の影響を受けたという見方もあるが、遺族は車両側の原因(空力、強度、マシントラブル)による事故の可能性を強く疑った。さらに父・進太郎の証言では前日、非常にナーバスになっており、「出来るなら明日は走りたくない。中止になってくれれば嬉しいんだが」という言葉を漏らしていたという。 細谷は後に「トヨタ7はル・マン24時間レースやカンナムレースも視野に入れていた。ル・マン用マシンは時速300kmを超えるのを目標に僕(細谷)がテストしていた。悪口のように聞こえたら本意ではないが、僕がマシンをテストし『もう少し煮詰めが必要』と述べたら、福澤君が『そのくらい乗れないでプロと言えますか』と言った。福澤君はセンスがあり速かったが、少し自信過剰になっていたかも知れない」と述べている。
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