閔妃殺害事件への関与
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国友重章は朝鮮で閔妃殺害事件に関与し、日本で拘引され訊問を受けたが、裁判所の予審により免訴・放免された。その経緯は以下の通りである。 1895年1月、日清戦争の末期に朝鮮で漢城新報が創立される。社長は国友と同じ熊本出身の安達謙蔵である。同じく熊本出身の佐々友房とその弟・正之も漢城新報の創立に加わる。佐々兄弟は国友の妻の兄弟、つまり国友の義兄弟であるという。兄・友房は、国友の父の門弟でもあり、かつて西南戦争で国友が属した熊本隊の小隊長でもあった。国友は特に同志から推されて漢城新報の主筆になり、その文名を京城に広める。 同年9月1日、三浦梧楼が朝鮮国駐箚特命全権公使として朝鮮の京城に着任する。当時朝鮮の宮中では閔妃が最も権勢を誇り、国政に介入して日本を疎外する姿勢を示していた。三浦公使はこれを聞いて憤慨し、朝鮮における日本の威信を保持するため朝鮮宮中を改革すべきことを考慮する。このとき朝鮮国王の父の大院君も宮中改革に意欲を示していたので、三浦公使は大院君を担いで王宮を制圧し、その機に乗じて閔妃を殺害することを決意する。 同年10月7日、三浦公使は安達謙蔵と国友重章の両名を公使館に招き、その知人を糾合して大院君を護衛しつつ王宮に入ることを依頼し、王宮に入る際に閔妃を殺害すべきことを教唆する。国友は安達とともに三浦公使の教唆に応えて閔妃殺害を決意し、同志の者を招集する。大院君の護衛に同意した者は24人以上おり、そのうち十数名は三浦公使からの教唆を伝えられ、各々殺意を決する。その他事情を知らずに好奇心で集まった者を含め各々凶器を携える。国友ら5名を除く同志たちは龍山に大院君を迎えに行き、8日未明、大院君を連れて出発し、西大門外で日本兵守備隊の到着を待ち、朝鮮兵訓練隊を前衛として王城に急進する。その途中、国友ら5名もこれに加わる。日の出のころ、皆で光明門より王城内に突入し、直ちに後宮に向かう。騒擾の中、閔妃は後庭で殺害され、遺体はその場で焼き棄てられる。 事件後、国友らは退韓(朝鮮からの出国)を命じられ、10月26日までに広島の宇品港で拘引される。当時の新聞記事では、国友は退韓者リストの筆頭に挙げられ、しかも氏名の傍らに圏点を特に振られている。退韓者36人中20人は国友と同じ熊本県人である。国友は広島地裁の予審判事から数日にわたって訊問をうける。そのうち10月28日分の訊問調書の写しが翻刻されている。 翌年1月20日、広島地裁が、国友を含む48人の被告に対して謀殺及兇徒嘯聚事件の予審終結決定を言い渡す。国友らが閔妃殺害を決意して後宮に侵入した事実を認定したものの、殺害を実行したと認めるための証拠が十分でないとして、被告人全員を免訴し、国友らの放免を決める。国友は翌月放免される。 事件から110年後の2005年5月10日、国友重章の外孫を称する人物が謝罪する。その人物は当時84歳の男性で、韓国人プロデューサーに要求され、京畿道南楊州にある墓陵を訪れ、閔妃の墓陵に向かって土下座して3度頭を下げ、「家族にしか知らせてこなかったが、日本に帰れば多くの人にここで見て感じたことを話すつもり」とか「日本の皇室が謝罪しなければならない」などと語ったという。
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