閔妃殺害事件への関与とは? わかりやすく解説

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閔妃殺害事件への関与

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 08:42 UTC 版)

国友重章」の記事における「閔妃殺害事件への関与」の解説

国友重章朝鮮閔妃殺害事件関与し日本拘引され訊問受けたが、裁判所予審により免訴放免された。その経緯以下の通りである。 1895年1月日清戦争末期朝鮮漢城新報創立される。社長国友と同じ熊本出身安達謙蔵である。同じく熊本出身佐々友房とその弟・正之も漢城新報創立に加わる。佐々兄弟国友の妻の兄弟、つまり国友義兄弟であるという。兄・友房は、国友の父の門弟でもあり、かつて西南戦争国友属した熊本隊の小隊長でもあった。国友は特に同志から推され漢城新報主筆になり、その文名京城広める。 同年9月1日三浦梧楼朝鮮国駐箚特命全権公使として朝鮮京城着任する当時朝鮮宮中では閔妃が最も権勢誇り国政介入して日本疎外する姿勢示していた。三浦公使はこれを聞いて憤慨し朝鮮における日本威信保持するため朝鮮宮中改革すべきことを考慮する。このとき朝鮮国王の父の大院君宮中改革意欲示していたので、三浦公使大院君担いで王宮制圧し、その機に乗じ閔妃殺害することを決意する同年10月7日三浦公使安達謙蔵国友重章両名公使館招き、その知人糾合して大院君護衛しつつ王宮に入ることを依頼し王宮に入る際に閔妃殺害すべきことを教唆する。国友安達とともに三浦公使教唆応えて閔妃殺害を決意し、同志の者を招集する大院君護衛同意した者は24人以上おり、そのうち十数名は三浦公使からの教唆伝えられ各々殺意決する。その他事情を知らず好奇心集まった者を含め各々凶器携える国友ら5名を除く同志たちは龍山大院君迎え行き8日未明大院君連れて出発し西大門外で日本兵守備隊到着待ち朝鮮訓練隊前衛として王城急進する。その途中国友ら5名もこれに加わる。日の出のころ、皆で光明門より王城内に突入し直ち後宮に向かう。騒擾の中、閔妃後庭殺害され遺体その場焼き棄てられる事件後、国友らは退韓(朝鮮からの出国)を命じられ10月26日までに広島宇品港拘引される。当時新聞記事では、国友は退韓者リスト筆頭挙げられ、しかも氏名傍ら圏点を特に振られている。退韓者36人中20人は国友と同じ熊本県人である。国友広島地裁予審判事から数日わたって訊問をうける。そのうち10月28日分の訊問調書写し翻刻されている。 翌年1月20日広島地裁が、国友を含む48人の被告に対して謀殺兇徒嘯聚事件予審終結決定言い渡す国友らが閔妃殺害を決意して後宮侵入した事実認定したものの、殺害実行した認めるための証拠十分でないとして、被告人全員免訴し、国友らの放免決める。国友翌月放免される。 事件から110年後の2005年5月10日国友重章外孫称する人物謝罪するその人物は当時84歳男性で、韓国人プロデューサー要求され京畿道南楊州にある墓陵を訪れ閔妃の墓陵に向かって土下座して3度頭を下げ、「家族にしか知らせてこなかったが、日本帰れば多くの人にここで見て感じたことを話すつもり」とか「日本皇室謝罪しなければならない」などと語ったという。

※この「閔妃殺害事件への関与」の解説は、「国友重章」の解説の一部です。
「閔妃殺害事件への関与」を含む「国友重章」の記事については、「国友重章」の概要を参照ください。

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