関西ローカル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:58 UTC 版)
「情報ライブ ミヤネ屋」の記事における「関西ローカル時代」の解説
『激テレ』を帯番組化する形で、2006年7月31日に放送開始。 宮根は番組開始に先立ち日本テレビタワーに赴き、放送第1回では『午後は○○おもいッきりテレビ』(2007年10月から『おもいッきりイイ!!テレビ』に改題、2009年3月で終了)司会のみのもんたとの対談の模様を、第2回では『ザ・ワイド』(2007年9月末で終了)の草野仁との対談を放送。宮根がみの・草野と共演した番宣用スポットCM「マダムの午後はよみうりテレビ!」も制作された。 前身『激テレ★金曜日』と同様に、直前に放送されていた『ザ・ワイド』が終了した後、CM(ステーションブレイク)を挟まず15:49からスタート。2006年9月4日からは15:50からの1分遅れでの放送開始に変更、15:49からの1分間はCMがある訳ではなく『きょうのミヤネ屋』と題した放送予告のVTRが流したため、実質15:49からのスタートに変わりはなかった(番宣や新聞のラテ欄、開始時間などでは全て15:50に統一した)。また、本番組の開始により、読売テレビでは12:00スタートの『おもいッきりテレビ』から『ザ・ワイド』、本番組、『NNN Newsリアルタイム』、『ニューススクランブル』まで平日午後の7時間連続生放送が実現した。 2005年3月27日で終了した『週刊トラトラタイガース』の流れを汲んだプロ野球・阪神タイガース応援コーナーも本番組内で「トラトラR」のタイトルで放送されていた。
※この「関西ローカル時代」の解説は、「情報ライブ ミヤネ屋」の解説の一部です。
「関西ローカル時代」を含む「情報ライブ ミヤネ屋」の記事については、「情報ライブ ミヤネ屋」の概要を参照ください。
関西ローカル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:58 UTC 版)
「情報ライブ ミヤネ屋」の記事における「関西ローカル時代」の解説
ここまでは読売テレビのみの放送。 放送期間放送時間備考2006年7月31日 - 2006年9月1日 月 - 金15:49 - 17:50 2006年9月4日 - 2007年9月28日 月 - 金15:50 - 17:50 1分ずらされたが、「きょうのミヤネ屋」や「玄関前トーク」などを実施していたので、実質15:49のスタートは変わらなかった。
※この「関西ローカル時代」の解説は、「情報ライブ ミヤネ屋」の解説の一部です。
「関西ローカル時代」を含む「情報ライブ ミヤネ屋」の記事については、「情報ライブ ミヤネ屋」の概要を参照ください。
関西ローカル時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:37 UTC 版)
1976年1月15日放送のよみうりテレビ制作の『11PM(大阪イレブン)』にて生放送された、20歳を迎える上方落語家をスタジオに集めてトークする企画「20歳の性熟度ピンクテスト」に出演。松之助は着物ではなく「赤いブレザーを着ていけ」と指示し、出演者の多くが着物姿の中、指示に従って営業用の赤いブレザーを着用して放送に臨み、よく喋ったさんまは目立った存在だったという。これがさんまのテレビデビューだった。 弟子になってから2年が経ち、通い弟子を卒業したさんまだが、テレビの出演オファーは全く無く、不定期の花月劇場の出番と落語会の出番の他、同期の島田紳助とイベント司会などの営業活動を行なっていたのみで、ほぼ毎日のように先輩芸人の森啓二とナンバ五郎(のちのMr.オクレ)とプラプラしてるだけだったという。ある日、毎日放送の『スタジオ2時』の企画「若手漫才選手権」に兄弟子の明石家小禄と漫才コンビとして出場を打診され、他に仕事もなく、松之助の助言もあり出場。小禄との漫才では、巨人の1番柴田から8番河埜までの選手の形態模写を順番に披露し、最後に巨人のエース小林繁の投球フォームを披露するネタが客にウケ、徐々に人気が高まった。その事もあり1976年の大晦日にフジテレビ『小川宏ショー』に出演。前述の形態模写で同年に活躍したスポーツ選手ネタだったが、これが東京での初仕事となった。翌1977年2月からうめだ花月に漫才コンビとして出るようになり、吉本興業から「アトム・スリム」として正式にデビューを打診されるが、さんまはピンで売れたい気持ちが強く拒否し事実上のコンビ解消となった。同時期に島田紳助からも漫才コンビを組む事を打診されるが拒否し、代わりに松本竜介を紳助に紹介し「紳助・竜介」結成に大きな役割を果たしている。 1977年10月にはB&B、のりお・よしお、ザ・ぼんちらとのコントユニット「ビールス7」を結成し、花月の舞台に定期的に出演していた。それらの活動が桂三枝の目に留まり、彼が司会する毎日放送の人気番組『ヤングおー!おー!』に抜擢。三枝の愛称「サニー」にあやかって「チャッピー」と愛称を付けられ、三枝の愛と厳しさに育まれながら、次第に頭角をあらわし、林家小染・月亭八方・桂きん枝・桂文珍の番組内ユニット「ザ・パンダ」を改編して、さんまを加入させた「サニーズ・オオサカスペシャル(S.O.S)」を立ち上げ、諸先輩を差し置いて1コーナーを任されるまでになる。その流れで1978年10月には『MBSヤングタウン』の桂三枝のアシスタントに抜擢。さらに同じ頃にプロ野球において「空白の一日」事件が起こり、巨人の小林繁が阪神に移籍すると、前述の小林の形態模写が再び脚光を浴びて、同形態模写をモチーフにしたレコードを出し、大ヒットするなど関西を中心にアイドル的な人気となる。
※この「関西ローカル時代」の解説は、「明石家さんま」の解説の一部です。
「関西ローカル時代」を含む「明石家さんま」の記事については、「明石家さんま」の概要を参照ください。
- 関西ローカル時代のページへのリンク