院政期の荘園整理令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 08:52 UTC 版)
平安時代末期に入ると、律令制が本来貴族・官人の生活の資として支給してきた「禄」(封戸・季禄など)の制度が完全に形骸化するとともに、貴族の生活が荘園や知行国を抜きにしては成立し得なくなり、こうした立場から荘園整理令を批判する動きが登場した。応保2年(1162年)頃に太政大臣藤原伊通が二条天皇に献じた意見書『大槐秘抄』には、かつての上達部(公卿)は封戸を与えられ、節会などには臨時の禄も支給されていた。だが、今はそれがないため、荘園を持たなければ生活が成り立たないし、同様に知行国の制度があるのも封戸が支給されないからであるとして、荘園整理令を批判した。また、文永年間(1270年前後)に元太政大臣であった徳大寺実基が後嵯峨院に充てた奏状では、荘園の保護こそが朝廷が廷臣に与えられる最大の「朝恩(天子の恩恵)」であるとする荘園整理とは全く反対の論理を展開するように至った。
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