院政期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 09:03 UTC 版)
院政期に至ると庶流の国房(明国の叔父)の系統や仲政(明国の弟)の系統が北面武士などとして院に伺候したが、摂関家領である多田荘を継承した明国の系統は行綱(明国の曾孫)の代に至るまで院北面とはなっておらず、代々摂関家の私的武力としての性格を持ち続けた。一族の者は中央に出仕して代々蔵人を務め嫡流は「多田蔵人」を称したが、摂関家の政治力の低下とも相俟ってその勢力は振るわず、行綱に至るまで主だった人物は出ていない。 保元の乱では惣領の座を巡って激しく争った頼盛・頼憲兄弟が後白河天皇方と崇徳上皇方とに別れて戦い、上皇方に与した頼憲とその嫡子盛綱が処刑されている。続く平治の乱では「多田蔵人大夫頼範」(頼盛の誤伝か)なる人物が藤原信頼・源義朝方として三条殿襲撃に加わり、戦後恩賞として摂津守に任官されたことが『平治物語』にみえているが、その他の史料における所見はなく、多田源氏の動向は詳らかではない。 平氏政権下となると行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られるが、この陰謀で行綱が藤原成親によって反平家の大将に据えられたのも多田荘の武力を背景とした行綱の力量を見込んでのことであった。その後の治承・寿永の乱では行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。 その後の多田荘は多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は多田氏や能勢氏などとなったとされるが、その詳しい動向は明確でなくなっている。
※この「院政期以降」の解説は、「多田源氏」の解説の一部です。
「院政期以降」を含む「多田源氏」の記事については、「多田源氏」の概要を参照ください。
- 院政期以降のページへのリンク