青野武一
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青野 武一(靑野武一[1]、あおの ぶいち、1899年(明治32年)9月7日[2] - 1959年(昭和34年)12月9日[2][3][4])は、大正・昭和期の労働運動家、政治家。衆議院議員(4期)。配偶者は青野 喜代子。長男は青野 宏、次男は青野 徹、孫は青野 義弘、青野 光俊[要出典]。
経歴
愛媛県新居郡、のちの西条市[2]で生まれる[注 1]。高等小学校を卒業後、八幡製鐵所に入り職工として勤務[2]。日本労友会に加わり、1920年(大正9年)同製鐵所の大争議に参加した[2]。日本労友会が解散した後、1925年(大正14年)九州民権党が結成され執行委員に就任[2]。その後、日本大衆党、労農大衆党、社会大衆党、日本無産党などの八幡支部書記長を務めた[2][4]。1927年(昭和2年)12月、製鐵所を解雇され[2]、1929年(昭和4年)から1942年(昭17年)まで八幡市会議員に在任した[2][4]。
戦後、日本社会党に加わり[2]、1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に福岡県第2区から出馬して初当選し[5]、以後、第27回総選挙まで再選され[6]、衆議院議員に連続4期在任した[2][3][4]。この間、衆議院決算委員長、社会党中央執行委員、同事業部長、同出版部長、同機関紙部長、同福岡県連執行委員長などを務めた[3][4]。国会では決算委員として造船疑獄の追求を行った[2]。その後、第28回総選挙に立候補したが落選した[7]。
1959年(昭和34年)12月9日死去、60歳。死没日をもって勲三等瑞宝章追贈、正五位に叙される[8]。
脚注
注釈
- ^ 『新訂 政治家人名事典』7頁、『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』11頁では福岡県出身。
出典
参考文献
- 『福岡県百科事典』上巻、西日本新聞社、1982年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
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