韓国(朝鮮半島)における風水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 13:53 UTC 版)
「日帝風水謀略説」の記事における「韓国(朝鮮半島)における風水」の解説
韓国(朝鮮半島)は歴史的に風水説や風水地理説が根強い土地である。風水は、中国で理論としてまとまった後に新羅時代の朝鮮半島に伝わり、少なくとも高麗時代には風水に基づいた為政がなされている。朝鮮の風水は主に有力者達の間で用いられたが、18世紀までには庶民の間にも広まったと考えられている。朝鮮半島の風水の特徴の1つに政治との結びつきの強さが挙げられ、遷都の際には風水に基づいて候補地が検討されたことが知られており、現在でもソウルは優れた「地脈」を持つ理想的な風水都市だという意見もある。また、風水と並んで祖先崇拝も強い朝鮮半島では墓の立地は極めて重要であり、李朝末期に朝鮮を訪れたアーソン・グレブスト(sv:Willy Grebst)は『悲劇の朝鮮』の中で、庶民がソウルに住みたがる理由の1つとして墓の多さを挙げており、今でも家や墓の立地が風水に基づいて決められることはよくある。特に日韓併合当時、風水上好ましいと思われる土地には、それが明白に墓地という区画であるかどうかに関わらず、他人の土地や国有地であっても、朝鮮の人民が勝手に死体を埋葬し、さらには後に自分たちがその土地の借地権や所有権を主張するという悪弊があり、総督府の土地調査において諸々の紛争を引き起こした。こうした風水に基づく発想や慣習は、日本からすれば異例のものであり、朝鮮総督府が三・一独立運動の原因を探るためにまとめた資料においても「朝鮮における風水」として大きく扱われていた。 また、朝鮮半島の歴史では、しばしば風水で地脈(龍脈)を断ち切るという伝説が登場する。例えば太宗は、自分と対立した李芳幹の墓が全州の風水で吉地とされる場所にあることを知り、山に灸を据えて地脈を断ち切らせたという。また、1797年に正祖は、高麗末期に明から遣わされた道士である徐師昊が端川(現・北朝鮮咸鏡南道)の懸徳山に5本の鉄杭を打ち込んだせいで、北関(咸鏡道)に人材が出ない」という「鉄杭断脈説」を唱えた。さらに、西京大学のソ・ギルス教授は「風水侵略史研究試論」で、文禄・慶長の役の時に明の将軍である李如松が江原道・忠清道・全羅道・慶尚道などで40以上の地脈を断ち切った、という調査結果を発表している。 黄文雄は、朝鮮総督府が頭を悩めた問題の1つとして風水を挙げている。特に鉄道建設用地の買収は困難を極めたといい、当時のソウル都市建設計画の施行責任者であった本間徳雄の苦悩を挙げている。朝鮮総督だった斎藤実が止めてしまえというほど、鉄道や道路の敷設は風水を断ち切るという理由で猛反発を受けた。また、1912年に日本が朝鮮で三角測量を実施する際には「『三角点の標石の下に魔物が埋められたので災厄がやって来る』という流言飛語にだまされないように」と注意する通達を出すほどだった。 これら都市計画は最終的に李垠(李王垠)の同意によって進められたが、風水を絶つために都市計画を行ったという現在の風水侵略論へと繋がっている。
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