顧雍とは? わかりやすく解説

顧雍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 09:41 UTC 版)

顧 雍(こ よう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。元歎揚州呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。曾祖父は顧奉(潁川太守。『呉録』による)。祖父と父の名は不明。同母弟は顧徽。妻は陸康の娘。子は顧邵・顧裕(顧穆)・顧済。孫は顧譚顧承顧栄。『三国志志に伝がある。


  1. ^ 三国志巻52裴注に呉書を引いて曰く「雍母弟徽」とある。
  2. ^ 三国志巻52裴注に呉書を引いて曰く「雍族人悌」とある。
  3. ^ 晋書巻57に「秘子参」とある。
  4. ^ 晋書巻57に「参弟壽」、晋書巻76に「衆兄壽」とある。
  5. ^ 晋書巻76に「驃騎将軍栄之族弟也」とある。
  6. ^ 晋書巻83に「侍中衆之族子也」とある。
  1. ^ 『三国志』呉志「呉主伝」によると、赤烏6年冬11月に死去。
  2. ^ 『江表伝』によると、孫権は中書郎の役人を顧雍の元へ派遣し、いろいろな事柄について意見を求めた。孫権の意向が顧雍の意見と合致し、すぐ実施してもよい場合、顧雍は中書郎の者とともに討議した上で、さらに深く検討を加え、中書郎の者に対しても酒食を用意して持て成すということをした。一方で、孫権の意向が顧雍の意見と合致しない場合、顧雍が顔つきを改めて厳しい顔をし、黙して何も語らず、何の振る舞いも用意しなかったため、中書郎の者もすぐに退室することにした。孫権は顧雍の意向を重んじ、何も語らなかったときは改めて考え直すことにしていたという。また、長江沿岸を守備する諸将が、よく巧名目的で軍事作戦を提案してくることがあったため、孫権が顧雍に意見を求めると、顧雍は諸将が自身の手柄目的で提案してくるようなことには耳を貸さずに、真に効果的と思える策のみを採り上げるようにと忠告した。孫権もこれに従ったという。
  3. ^ 名臣20選には、荀彧荀攸袁渙崔琰徐邈陳羣夏侯玄王経陳泰(以上)、諸葛亮龐統蔣琬黄権(以上)、周瑜張昭魯粛諸葛瑾陸遜顧雍虞翻(以上)を選出している
  4. ^ 顧雍は「元歎穆遠 神和形檢 如彼白珪 質無塵玷 立上以恒 匡上以漸 清不增潔 濁不加染」と謳われている


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顧雍(こ よう、字・元歎)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:12 UTC 版)

蒼天航路」の記事における「顧雍(こ よう、字・元歎)」の解説

孫権軍幕僚。目が細く好々爺然としている。物語後半では張昭と共にいることが多い。

※この「顧雍(こ よう、字・元歎)」の解説は、「蒼天航路」の解説の一部です。
「顧雍(こ よう、字・元歎)」を含む「蒼天航路」の記事については、「蒼天航路」の概要を参照ください。

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