食堂車と富士山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:37 UTC 版)
山陽新幹線の博多開業時には、それまでのビュフェ車に加えて食堂車が導入されることとなった。食堂利用客と車内通過客との分離を図る観点から仕切り壁によって山側に通路を設けることとなったが、当初は仕切り壁に窓が設置されていなかった。このため、1974年(昭和49年)9月5日に行われた導入発表時の記者会見でも記者から「食堂車からは富士山が見えないのでは?」との質問が出たが、これに対して「多分、少しは見えるはずです」と回答したため、「見える・見えない」と論争となった。 その後、博多開業直前の1975年(昭和50年)1月20日 - 1月23日に行われた直通運転試運転で同乗した記者陣が安倍川鉄橋付近で視認するという一幕があり、わずかながらでも海側から富士山が見られる(車窓に張りついて東京寄り先頭車の先に見るというかなり苦しい状態で、在来線の東海道本線のように左右に移り変わるというものではない。見られるのは2分間ほどであるうえ、東京に向かって座っていないとかなり見づらい)ことが確認されたが、開業後には利用者から「車窓から富士山が見えない」というクレームが相次いだため、1979年(昭和54年)から仕切り壁に窓を設置する改造(通称「マウント富士」)が行われた。しかしながら、実際には富士山より食堂車で食事をするために並ぶ人々の列のほうが目立ってしまったという。
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