魔法書の歴史
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キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒の文化が共存していた12-13世紀のイベリア半島やシチリアでは、アラビア語の書物が盛んにラテン語に翻訳された。その中には、中世アラビアのヘレニズム的魔術を集成した『ガーヤト・アル=ハキーム』や、自然魔術的な内容を含む偽アリストテレスの『秘中の秘』などもあった。中世ユダヤの魔術書『天使ラジエルの書』もこの時期にラテン語訳が作られている。こうしてもたらされた占星術や魔術の知識はヨーロッパのキリスト教徒に刺激を与え、キリスト教的要素をもつ新しい魔術書がヨーロッパで生み出されることとなった。ロジャー・ベーコンやアルベルトゥス・マグヌスといった中世の著述家の残した記述から、フランスやドイツで当時出回っていたさまざまな魔術書の名を知ることができる。12世紀のキリスト教を背景として13世紀頃までに生まれた中世キリスト教的な魔術のジャンル「アルス・ノトリア」については、50種類以上の写本が伝存している。 中世においては、こうした書物は主として聖職者や学者、学生など、ラテン語の読み書きができる多少なりとも教養のある人々に読まれ、写本の形で流布していた。これらの書物に記された儀式魔術は識字者による識字者のための魔術であり、民間に口承で伝えられる民衆魔術と対比される。そのことは、ヨーロッパ中世において儀式魔術の担い手の多くが聖職者であったことを意味する。儀式魔術は悪霊と交渉する異端的なものとしてトマス・アクイナスなどの神学者から非難されていたが、一部の聖職者は魔術に手を染めていた。たとえば12世紀のヘンリー2世の頃の学僧、ソールズベリーのジョン(英語版)は少年の頃、鏡を使った魔術を行う神父に霊視者の役をさせられたという。降霊術を行った廉で告発された聖職者の宗教裁判の記録は数多く残っており、その中には司教も含まれる。修道士、下級聖職者、小教区の司祭や助任司祭といった末端の聖職者は、神学には比較的無知であったかもしれないが、キリスト教の典礼に通じており、その知識を儀式魔術に転用することができた。中世宗教史の研究者リチャード・キークヘファーは、下位の聖職階級のひとつであった祓魔師に叙階されたことのある者の中には、道を外れて悪魔を呼び出そうとする者もいたのではないかと指摘している。冬の間だけ大学で学び、夏は流浪し、農民に魔術の力を吹聴してイカサマを働く貧乏放浪学生もいた。 魔女狩りの時代には大っぴらにグリモワールを作ったり所持することはできなかったが、異性の愛を得る、財宝を発見するなどの世俗的な目的の魔術は人々の間で需要があった。17世紀から18世紀は宝探しが盛んな時代であったが、隠された財宝は精霊や幽霊に守られているとの伝承があり、宝探しには魔術が有効と考えられていた。そのため一獲千金が狙えるグリモワールは高値で取引されたという。近代には一般民衆の識字率が上がり、種々のまじないを寄せ集めた通俗的な魔術本が出版されるようになった。かつては聖職者や大学人や宮廷人のものであった魔法書は、16世紀頃から医師、弁護士、軍人といった新興インテリ層にも広がり始め、さらには職人や商人といった一般の人々も所持する民衆的な書物となった。イングランドでカニングマンと呼ばれたような民間の占い師や治療師も、グリモワールに図示された護符などを利用するようになった。フランスでは17世紀から18世紀に行商人によって「青本」という民衆本が売りさばかれたが、その中には通俗的な魔術書の類も多かった。ドイツでは18世紀に一般民衆を対象とした「家父長のための書物」と呼ばれる実用書の出版が盛んになったが、その一環として魔術書も出回るようになった。しかし魔法書は自分で筆写したものでなければ力あるものとならないという考えも根強く、印刷されたものでない手書き写本の魔法書が多く用いられていた。
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