6次産業化
6次産業
6次産業(ろくじさんぎょう)とは、農業や水産業などの第一次産業が食品加工・流通販売にも業務展開している経営形態を表す。農業経済学者の今村奈良臣が提唱[1]した造語。また、このような経営の多角化を6次産業化と呼ぶ[2]。ちなみに、6次産業という名称は、農業本来の第一次産業だけでなく、他の第二次・第三次産業を取り込むことから、第一次産業の1と第二次産業の2、第三次産業の3を足し算すると「6」になることをもじった造語[1]であり、6番目という意味ではない。
概要
農業・漁業は第一次産業に分類され、農畜産物、水産物の生産を行うものとされている。
だが、6次産業は、農畜産物、水産物の生産だけでなく、食品加工(第二次産業)、流通、販売(第三次産業)にも農業従事者が総合的に関わることによって、加工賃や流通マージンなど第二次・第三次産業の事業者が得ていた[売上・利益]を、農業者自身が得ることによって農業経営体の所得を向上させようというものである。
第二次産業・第三次産業が得ていた[売上・利益]に[付加価値]を付けて、農業のブランド化、消費者への直接販売、レストランの経営などを推奨している。
第一次産業に付加価値をつけて高度化を目指すという観点では、1.5次産業化に類似しているが、6次産業は加工、流通を複合化させるという視点がより、明確である。
「農業経営体の経営の多角化をする。」をキーワードとして推奨されている。
ただ、農業所得の低迷を農業従事者のみで解消させようとする、政策放棄とも呼ばれている。
脚注
- ^ a b 今村 奈良臣. “新しい農業への模索、第六次産業の創造を21世紀農業を花形産業にしよう、一、二、三次産業を足したもの”. 二十一世紀村づくり塾. 2009年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年3月12日閲覧。
- ^ 農林. “農業の6次産業化”. 2010年2月10日閲覧。
関連項目
- 農林漁業成長産業化支援機構
- 世羅町
- 地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出等及び地域の農林水産物の利用促進に関する法律
- 第一次産業 - 第二次産業 - 第三次産業
- 直販
- 観光農園の一覧
- A級グルメ・B級グルメ
外部リンク
6次産業化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 14:43 UTC 版)
広島カキは早くから他地域へ移植されていた。伊予松山藩に入封した松平定行は殖産興業として、寛文3年(1663年)広島からカキ70俵を購入し松山領内の海辺に巻いたという。貞享年間(1684-1688年)には磐城に移植して“松川蠣”として名産品となった。 広島カキの6次産業化、つまり生産者運営のかき船による産地直販も江戸期から始まっている。 「かき船」も参照 延宝年間(1673年-1681年)ひび建養殖法を開発した草津村小西屋五郎八と志を同じくする草津村の5人は、船で瀬戸内海沿岸の港にカキを売っていき、大阪への販路を構築していた。元禄元年(1688年)村役人河面(松屋)仁右衛門の尽力により草津村カキ養殖業者は、三次藩から草津沖の使用許可と大阪市場でのかき船営業免許を受けた。元禄2年(1689年)草津の業者で株仲間を結成、更に宝永5年(1708年)草津の業者は大坂町奉行からも独占販売の特権を得ることができた。一方仁保(仁保島村)では、正徳年間(1711年-1716年)かき船が出ていた記録が残り、寛保3年(1743年)株仲間が結成されている。草津が独占権を得ていた中で仁保が食い込めたのは、江戸初期草津は支藩である三次藩が支配していたのに対し仁保は本藩である広島藩が支配していたこと、そして草津ではカキが不足した時に仁保から買ってかき船を運営していたため、草津側が黙認していたと考えられている。江戸期はこの草津村と仁保島村の株仲間が独占していた。草津の方が販売上の特権が多く株仲間以外の規制が厳しかったのに対し、仁保は草津より販売上の権利は少なかったが株仲間以外の参加も許していたため、仁保近辺である海田湾周辺でカキの養殖に従事する者が増えた。各地区で競って養殖技術を開発していたと推測されている。生産量が増えたことで京都へさらに各地へと販路を拡大する計画を立てていた。九州にもかき船を出していたという話もある。 かき船では殻付きのまま大阪へ運び、当初は現地でむき身にする実演販売の形で売られていた。冷蔵技術のなかった当時、殻付きカキを俵に詰めて潮水を含ませてからかき船に積み込んで運搬しており、俵詰め輸送に耐えられる丈夫な大ぶりなカキとして仁保で3年生カキが考え出された。寛政11年(1799年)大阪の塩屋長兵衛が刊行した『日本山海名産図会』で紹介されている。 畿内に食するもの皆芸州広島の産なり。最も名品なりとす。播州紀州泉州等に出すものは大にして自然生なり。味佳ならず。又武州参州尾州にも出せり。広島に蓄養して大阪に売るもの皆三年ものなり。故に其の味過不及の論なし。 — 日本山海名産図会、 文化2年(1805年)大田南畝の紀行文『小春紀行』の中に、西国街道四日市宿の島家(現在の白牡丹酒造)に泊まり海田で採れたカキを調理したものを肴に島家の酒を呑んだことが書かれている。 江戸後期の広島で育ち京都を中心に活躍した儒学者頼山陽はこう賞賛した。 天上天下牡蠣独尊 — 頼山陽、 そしてその中で様々なカキ料理が考え出された。越中高岡の長光寺住職であった東林が書いた紀行文『泛登無隠』の中に、天保3年(1832年)大阪常安橋たもとにあったかき船で8品食べたことが記載されている。現在、広島市郷土資料館において希望者にレシピが書かれたパンフレットを配布している。 カキと芹のそそぎ鍋風 カキの土手焼き カキのからまむし カキの胡麻油炒め 酢ガキ カキのひね生姜煮 カキの吸物 カキ飯 こうしたカキ販売の盛況に刺激されて、明治以降に株仲間が廃止され販売が自由化されると、他でもかき船が出て瀬戸内で広く行われるようになり、大正時代に全盛期を迎えた。かき船は近代以降様々な営業形態を経て、現在もわずかながら存続している。 広島「かなわ」。2017年現在広島市内で唯一のかき船。 呉「かき船」。2017年現在広島県内ではかなわとかき船の2つのみ。 広島「ひろしま」。2017年3月に撤去、後続店舗は現在開店していない。かき船#広島市のかき船移転問題参照。 大阪「かき広」。大阪市唯一のかき船。 大阪「吉兆」。かき船が陸に上がって料亭になった例。
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