1760年までの形勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 09:27 UTC 版)
「ベル=イル占領」の記事における「1760年までの形勢」の解説
フレンチ・インディアン戦争の勃発に続き、イギリスとフランス本国でも1756年にお互いに宣戦布告した。まずフランスがミノルカ島を占領したが、その後はイギリスのウィリアム・ピットが主導権を握ってフランス沿岸部を襲撃した(1757年のロシュフォール襲撃と1758年のシェルブール襲撃)。これらの襲撃の実効性は薄かったが、フランスの士気を大きく下げ、その対処としてフランスは多くの陸軍を沿岸部に配置せざるをえなかった。1758年のサン=カス上陸が失敗すると、ピットは方針転換したが、フランス沿岸部へのさらなる襲撃の可能性も考慮に入れていた。 1759年、フランスはイギリスの本土侵攻を計画(英語版)したが、ラゴスの海戦とキブロン湾の海戦に敗北、そしてほぼ戦争を通して行われたイギリスによるフランスの海上封鎖により計画を破棄せざるをえなかった。講和までの数年間、フランス海軍はほとんど錨を降ろしたままとなった。また、イギリスは1757年以降、フランスの植民地に攻撃を仕掛け、その多くを占領した。1760年の征服でカナダを占領すると、ピットはこれで財政難のフランスが和平に傾くと考えた。
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