1938
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ツール・ド・フランス 総合優勝。山岳賞。第11・14区間優勝。
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1938
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「メルセデス・ベンツ・W154」の記事における「1938」の解説
W154のデビュー戦は1938年のグランプリ・シーズンの開幕戦、4月に行われたヨーロッパ選手権対象外のポーグランプリだった。 ルドルフ・カラツィオラとヘルマン・ラングが2台のW154で参戦したが、ラングは練習走行中にクラッシュを喫し、レースに出走できたのはカラツィオラの1台のみだった。ドライエに乗るルネ・ドレフュスがポールポジションを獲得し、先頭からレースをスタートしたが、2番グリッドから好スタートを切ったカラツィオラがスタートでドレフュスをかわして先頭に躍り出た。レースをリードしたカラツィオラだったが、過去に負傷した足の状態が悪化したため、ピットインして給油作業中にラングと交代した。 その間にトップに立ったドレフュスは燃費で有利なドライエのマシンの特性を生かし、そのままピットストップ無しでレースを走り切ることができた。カラツィオラと交代したラングはスパークプラグのトラブルが発生したこともあってドレフュスから2分遅れの2位でこのレースを終えた。 次にW154が姿を現したのはまたも選手権対象外のトリポリグランプリだったが、前回とは異なりこのレースでは好成績を収めることができた。ラングとフォン・ブラウヒッチュ、そしてカラツィオラが3台のW154で参戦したが、W154は練習走行で1位から3位までを独占し、1位のカラツィオラから4位のクレメンテ・ビョンデッティまでのタイム差は3秒以上もあった。 3台のW154はレースでもそのままの順位でフィニッシュした。フォン・ブラウヒッチュとカラツィオラのマシンはレース中エンジントラブルに見舞われたが、3位でフィニッシュしたカラツィオラから4位のレイモン・ソメールまでは8分ものタイム差がつく圧勝だった。 この年のヨーロッパ選手権の初戦はランス・グーでのフランスグランプリだった。このグランプリにはカラツィオラ、フォン・ブラウヒッチュ、ラングが乗る3台のW154が参加した。僅か9台に留まったエントリーリストを見たメルセデスチームの監督アルフレート・ノイバウアーは、リチャード・シーマンを4台目のW154で参加させることを主催者に提案したが、主催者側は参加台数は1チームにつき最大3台に限るという規則を引き合いに出してこれを拒絶した。練習走行でラングがポールポジションを獲得し、フォン・ブラウヒッチュが2位、カラツィオラが3位につけてアウトウニオンの クリスチャン・カウツとルドルフ・ハッセの前に出た。メルセデス・ベンツのマシンはスタートからレースをリードし、2週目終了時には4台のライバルがリタイアしたことでコース上にはメルセデスとタルボのマシンを残すのみとなったが、タルボは既に1分もメルセデスから遅れて走っていた。ラングはピット作業中にタイムロスし、カラツィオラのエンジンは1気筒が停止して11気筒の状態になった。フォン・ブラウヒッチュはトラブルに見舞われたカラツィオラとラングの前でフィニッシュし、フランスグランプリでの優勝を飾った。3台のメルセデスを除く唯一の完走者は10週遅れのタルボに乗るルネ・キャリエールだった。 フランスグランプリの3週間後にはヨーロッパ選手権の第2戦ドイツグランプリが行われ、出走した4台のW154が練習走行のタイムで上位4つのグリッドを独占した。ポールポジションはフォン・ブラウヒッチュが獲得した。ラングとシーマンがそれに続き、カラツィオラはその後ろとなった。ラングが好スタートでトップに立ったが、3週目にスパークプラグにオイルが滲みだし、緊急ピットインを強いられた。その後直ぐにノイバウアーはラングにもう一度ピットインするよう指示を出し、リザーブドライバーのヴァルター・ボイマーを交代でマシンに乗り込ませた。ラングがトラブルで脱落したことでフォン・ブラウヒッチュがトップに返り咲いた。カラツィオラはレース中腹痛に苦しめられており、10週目にピットインするとラングに交代した。フォン・ブラウヒッチュは16週目に2回目のピットインを行い、2位のシーマンも続いてピットに入った。フォン・ブラウヒッチュのピット作業中、メカニックが誤って燃料を溢れさせ、こぼれた燃料が排気管の炎に引火した。 この混乱の中、シーマンは無事にピット作業を終えてトップでコースに戻ることができた。消火作業が終わるとフォン・ブラウヒッチュもピットを後にしたが、アウトラップでクラッシュしてレースを終えるという結果となった。シーマンはそのままトップでフィニッシュしてドイツグランプリでの優勝を飾り、その後ろにはカラツィオラのマシンに乗るラングが続いた。ラングの車に乗り込んだバウマーはエンジントラブルでリタイアした。 フランスグランプリ終了後、メルセデスチームはイタリアで行われる2つの非選手権グランプリレース、モンテネーロ・サーキット(英語版)でのコッパ・チアーノ(英語版)と ペスカーラ・サーキットでのコッパ・アチェルボ(英語版)に出走した。コッパ・チアーノでカラツィオラが使用したW154は拡張された燃料タンクと短縮されたリアエンドを持つ実験的な仕様の車両だった。コッパ・チアーノでポールポジションを獲得したのはマセラティ 8CTFのカルロ・フェリーチェ・トロッシだったが、エンジンの故障で8週目にリタイアした。カラツィオラもまた燃料タンクの破損でリタイアし、フォン・ブラウヒッチュがラングを抑えてトップでフィニッシュした。しかしレース後にフォン・ブラウヒッチュは外部からレース中に補助を受けたとして失格を言い渡され、その結果ラングが優勝者となった。続くコッパ・アチェルボでアウトウニオンのタツィオ・ヌヴォラーリがポールポジションを獲得したことでメルセデスは2戦連続でポールポジションの獲得に失敗するという形となった。レースではヌヴォラーリがデフの故障でリタイアし、カラツィオラが優勝を飾った。一方でフォン・ブラウヒッチュとラングのW154はエンジントラブルでリタイアに終わった。ラングの車両はコンロッドが燃料パイプを切断して出火した結果、W154のアルミ製ボディが全焼する惨事となった。
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