1943
1943
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 18:08 UTC 版)
「タスカルーサ (重巡洋艦)」の記事における「1943」の解説
修理の後、タスカルーサは1943年3月から5月の間は北アフリカ戦線に対する、米英軍のほか自由フランス軍を乗せた輸送船団の護衛でチュニジアに向かった。その一方で、スピードを生かして大西洋を突破するドイツの封鎖破り船に対する警戒を行った。5月下旬には、チャーチル首相を乗せニューヨークに向かう輸送船クイーン・メリー (RMS Queen Mary) を護衛した。その後、タスカルーサはオーガスタと合流し、ボストン海軍工廠で10日間の整備を行った。整備後、タスカルーサはレンジャーとともに輸送船クイーン・エリザベス (Queen Elizabeth) をハリファックスからスカパ・フローまで護衛。スカパ・フローに到着後は、北海での行動を経てイギリス本国艦隊の下で再び行動することとなった。10月2日、タスカルーサとレンジャーは、ノルウェーのボードーにあるドイツ軍施設や港湾を攻撃するリーダー作戦に参加。これは、ヨーロッパ方面におけるアメリカの空母艦載機による初めての空襲作戦だった。ドイツ空軍機が反撃してきたが、上空警戒の戦闘機により撃墜された。間もなくティルピッツが出撃し、スピッツベルゲン島に対して艦砲射撃を行った後、すぐに姿をくらました。 タスカルーサは、冬が来る前にスピッツベルゲン島に対する輸送作戦に参加した。10月17日、物資を積んだ2隻のLCVPをタスカルーサと英米の4隻の駆逐艦が護衛しセイディスフィヨルドを出撃。イギリス戦艦アンソン (HMS Anson, 79)、イギリス重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78)、レンジャーおよび6隻の駆逐艦が間接護衛についた。19日朝、タスカルーサとLCVPはスピッツベルゲン島に到着。外洋で駆逐艦が対潜警戒を行う中、タスカルーサは測候所を復旧する160人の工員を上陸させ、物資を下ろした。夕方までには一切の作業は終わり、タスカルーサはセイディスフィヨルドに帰投し、元来のスピッツベルゲン島守備隊員をクライドに乗せていった。タスカルーサはアイスランドに向かった際、ドイツ艦隊を誘い出すべくノルウェー沿岸部で行動したが、ドイツ艦隊は出てこなかった。タスカルーサは本国艦隊を外れ、12月3日にニューヨークに到着してオーバーホールに入った。
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「スワニー (護衛空母)」の記事における「1943」の解説
南太平洋に到着してからのスワニーは、約7ヵ月間にわたってガダルカナル島の海兵隊に対する補給船団の護衛に従事し、ソロモン諸島を島伝いに北上していく味方の間接援護を行った。スワニーはニューカレドニアやガダルカナル島の他、エファテ島やエスピリトゥサント島にも立ち寄った。 スワニーは10月にサンディエゴに帰投し、11月5日までにはエスピリトゥサント島に進出した。11月13日、スワニーはガルヴァニック作戦に参加するため出撃。11月19日から23日にかけて、スワニーは南部攻撃部隊の空中援護を担当しながらタラワ攻撃を行った。この時、マキンの戦いを担当する北部攻撃部隊は、依然ブタリタリを攻撃中だった。作戦終了後、護衛空母群は真珠湾経由でアメリカ本国に向かい、スワニーは12月21日にサンディエゴに帰投した。
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「サンガモン (護衛空母)」の記事における「1943」の解説
1943年1月中旬、サンガモンはエファテ島に到着し、同地で第22空母群 (CarDiv22) を編成。次の8ヵ月間、合流してきたスワニー (USS Suwannee, CVE-27) およびシェナンゴ (USS Chenango, CVE-28) とともにニューカレドニア、ニューヘブリディーズ諸島およびソロモン諸島を結ぶ海域で行動した。また、ガダルカナル島行きの補給船団およびラッセル諸島急襲部隊の護衛にも出動した。4月5日に E・P・ムーア艦長が着任し、7月15日には CVE-26 (護衛空母)に艦種変更された。8月、サンガモンは拠点をエファテ島からエスピリトゥサント島に移動させたが、9月に入ってメア・アイランド海軍造船所でオーバーホールを受けるためアメリカ本国に向かった。オーバーホールでは、操舵室と戦闘情報センター室が更新された。 10月19日、サンガモンは第37混成航空隊 (VC-37) を乗せてサンディエゴを出港し、エスピリトゥサント島に向かった。サンガモンは11月13日に第53任務部隊(ハリー・W・ヒル(英語版)少将)に合流してギルバート諸島海域に到着。11月20日からのタラワの戦いでは2日間にわたってタラワの日本軍に対して攻撃を繰り返した。その後は12月6日まで、空中警戒待機と味方部隊に対する対潜哨戒を続行した。作戦終了後、サンガモンはサンディエゴに帰投した。
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「ホーエル (DD-533)」の記事における「1943」の解説
ホーエルはサンフランシスコのベスレヘム・スチールで1942年6月4日に起工し、12月19日にホーエル中佐の孫娘であるチャールズ・ブンカー・クレーン・ジュニア夫人によって進水。艦長ウィリアム・ドウ・トーマス中佐の指揮の下1943年7月19日に就役する。 就役後、ホーエルは8月16日にサンフランシスコ湾を出港してサンディエゴに向かったが、その道中で慣熟訓練と7発の爆雷を使って結果が判明していなかった水中音響の聴取テストを実施した。実戦に向けた最終的な改修のため9月17日からメア・アイランド海軍造船所に入り、改修作業終了後の10月26日に第47駆逐部隊に編入されて輸送船団に加わり、サンフランシスコを出港。10月31日に真珠湾に到着後、第47駆逐部隊司令A・O・クック大佐は旗艦をヒーアマン(USS Heermann, DD-532)からホーエルに移した。間もなく、ホーエルは第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)に編入されてリッチモンド・K・ターナー少将が率いる第52任務部隊に属することとなり、ギルバート諸島奪取のガルヴァニック作戦に参加することとなった。作戦に際し、ヘンリー・M・ムリニクス少将率いる第52.3任務群の3隻の護衛空母、リスカム・ベイ (USS Liscome Bay, CVE-56) 、コーラル・シー (USS Coral Sea, CVE-57) およびコレヒドール (USS Corregidor, CVE-58) を駆逐艦モリス(英語版)(USS Morris, DD-417)、フランクス(英語版)(USS Franks, DD-554)、ヒューズ(英語版)(USS Hughes, DD-410)および掃海艇リヴェンジ(英語版)(USS Revenge, AM-110)とともに護衛する。 11月10日、第52.3任務群は真珠湾を出撃し、マキン環礁に向かう。11月20日早暁、第52.3任務群は「ベビー空母(baby flattops)」と通称された攻撃隊を発進させてマキンを空襲させ、マキンの戦いは始まった。続く3日間、第52.3任務群は艦載機をもってマキンに上陸したラルフ・C・スミス(英語版)陸軍少将の第27歩兵師団(英語版)の支援にあたる。海と空からの攻撃でマキンの日本軍拠点は次々と破られていった。しかし、11月24日早朝、日本海軍の伊号第一七五潜水艦(伊175)が第52.3任務群に接近し、魚雷を発射してリスカム・ベイに命中させる。逸れた2本目の魚雷はコーラル・シーをかすめ去るのが目撃された。リスカム・ベイは大爆発を起こし、ホーエルはリスカム・ベイから立ち上る300メートルほどの煙を目撃した。リスカム・ベイは炎と赤く焼けただれた部品を吹き上げたあと23分で沈没し、ムリニクス少将やリスカム・ベイ艦長アーヴィング・D・ウィルトジー(英語版)大佐ら642名が艦と運命を共にした。ホーエルら第52.3任務群の駆逐艦は272名の生存者を救助した。翌11月25日夕刻、第52任務部隊は日本機の空襲を受け、日本機はパラシュート付の照明弾を投下して魚雷を13本発射したが、第52任務部隊は巧みな回避運動で被害を一つも受けなかった(ギルバート諸島沖航空戦)。 第52.3任務群は11月27日にマキン沖を離れ、ホーエルはアベママ島(英語版)攻略部隊に編入される。翌朝、ホーエルはターナー少将の任務部隊本体に合流し、12月1日にタラワから8キロ離れた沖合に到着し、環礁外で対潜哨戒に従事した。2日後、ホーエルは戦艦テネシー (USS Tennessee, BB-43) と輸送船団を護衛して真珠湾に向かい、12月11日に到着。3日後の12月14日、クック大佐は部隊旗艦をホーエルからマッコード(英語版)(USS McCord, DD-534)に移した。
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「オークランド (軽巡洋艦)」の記事における「1943」の解説
オークランドは1943年夏からのサンディエゴ沖での訓練航海を経て、11月3日に真珠湾に到着した。オークランドはフナフティ島近海に進出し、3隻の重巡洋艦および2隻の駆逐艦と第50.3任務群を構成し、ガルヴァニック作戦の支援を行った。任務群はギルバート諸島での水陸両用作戦を援護し、機動部隊は11月19日から空中援護を開始した。日本側は航空部隊を繰り出し、20日午後から機動部隊を攻撃した(ギルバート諸島沖航空戦)。オークランドは対空砲火により機動部隊に接近した2機を撃墜し、別の2機を追い払った。 11月26日から、機動部隊はマーシャル諸島の北東海域で再び日本機の空襲を受けた。オークランドは対空砲火で日本機を撃退し続けたものの、12月4日23時32分に空母レキシントン (USS Lexington, CV-16) の艦尾に魚雷が命中し、オークランドは損傷したレキシントンを護衛して後方に下がり、12月9日に真珠湾に帰投した。
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「1943」の例文・使い方・用例・文例
- 小説は1943年に、そして、再び1967年に映画化された;私は後のものより以前のバージョンを好む
- 第二次大戦中の太平洋での戦い(1942年−1943年)
- 第二次大戦中(1943年11月)の太平洋での戦い
- 1943年に三冠王を得たサラブレッド
- 彼が権力を握る支援を行ったが、1943年以後SSにより失墜させられた1921年にヒトラーにより作られたナチ民兵
- 米国のテニスプレーヤーで、米国と英国のシングルス選手権に勝った最初の黒人(1943年−1993年)
- 米国の植物学者、農業化学者で、ピーナッツ、大豆、サツマイモの多くの用途を開発した(1864年−1943年)
- しばしば不屈の人物を演じる米国の映画俳優(1943年生まれ)
- ヘンリー・フォードの息子(1893年−1943年)
- 英国の作家で、レスビアンの関係に関する小説が長年英国で禁止された(1883年−1943年)
- リチャードロジャーズと共同した米国の作詞家(1895年−1943年)
- ドイツの数学者(1862年−1943年)
- 英国の舞台俳優で映画俳優(1893年−1943年)
- スペイン人の歌手で、バラードとラブソングで知られる(1943年生まれ)
- 英国の不気味な短編の作家(1863-1943)
- 英国のロック・スター(1943生まれ)
- デンマーク人の言語学者(1860年−1943年)
- 人気絶頂で薬剤の過剰な服用で死んだ米国の歌手(1943年−1970年)
- 米国の女性テニス選手(1943年に生まれ)
- 米国の病理学者(オーストリア生まれ)で、人間の血液型を発見した(1868年−1943年)
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