1950年代 – 1960年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 14:08 UTC 版)
「コミュニケーション学」の記事における「1950年代 – 1960年代」の解説
1950年代以降、コミュニケーション学はいくつかの新しい、またそれまでとは非常に異なった方向に枝を伸ばした。各地の大学に新しいプログラムが開設され、新たな学術誌が創刊された。 ハロルド・イニスの『Empire and Communications (帝国とコミュニケーション)』(1950年)によって提起されて議論を呼んだ「メディア理論」の業績が重要性を増し、マーシャル・マクルーハンの『メディア論 (Understanding Media)』(1964年)で広く知られるようになった。この観点は、後年のジョシュア・メイロウィッツの業績(『場所感覚の喪失 (No Sense of Place)』1986年など)に受け継がれた。 1940年代に展開した二つの動きが、1950年代にコミュニケーション学のパラダイムをシフトさせ、それ以降はより定量的志向性が強まり、少なくとも定量的方向での議論を避けて通ることはできない状況になっていった。そのひとつはノーバート・ウィーナーが1948年の『Cybernetics: Or the Control and Communication in the Animal and the Machine(サイバネティックス、あるいは、動物と機械における制御とコミュニケーション)』で定式化したサイバネティックスであり、もうひとつはクロード・シャノンとウォーレン・ウィーバーが『コミュニケーションの数学的理論』(1949年)において、定量的な表現を通して再提起した情報理論であった。こうした業績は、広く社会の一般理論に組み込まれるべきもの、そのために提起されたものである。 フランクフルト学派と関連づけられる批判理論の伝統は、ヨーロッパにおけるのと同様に、多くの研究者に重要な影響を与えている。社会学分野で展開された業績ではあるが、ユルゲン・ハーバーマスや、合衆国に拠点を置いたレオ・ローウェンタール、ヘルベルト・マルクーゼ、ジークフリート・クラカウアーらは、より早い時期のアドルノやマックス・ホルクハイマーらと同じように、文化産業について経験的にも理論的にも焦点を当てる文化批判の伝統全体に、引き続き影響を与え続けた。 1953年、産業界からの増大する需要に応えて、レンセラー工科大学 (RPI)が、テクニカル・ライティングの修士号(Master of Science)を授与するようになった。1960年代には、口頭でのコミュニケーションや視聴覚機器を用いるコミュニケーションについてのトレーニングが課程に組み込まれたこともあり、学位名は「テクニカル・コミュニケーション」に変更された。これは、長くRPIの教授であり、執行部の一員でもあったジェイ・R・グールド(Jay R. Gould)の創案によるものであった。
※この「1950年代 – 1960年代」の解説は、「コミュニケーション学」の解説の一部です。
「1950年代 – 1960年代」を含む「コミュニケーション学」の記事については、「コミュニケーション学」の概要を参照ください。
- 1950年代 – 1960年代のページへのリンク